随筆集

2021年3月22日

ときの忘れものブログ:平嶋彰彦のエッセイ「東京ラビリンス」のあとさき その10(前編)

 この連載は毎月14日に更新されます。写真が多いので、抜粋を掲載します。

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 その10 私の駒込名所図会(1)駒込の植木屋と大名屋敷(前編)

 文・写真 平嶋彰彦

 「ときの忘れもの」は、JR駒込駅の南方およそ300メートル、本郷通りと不忍通りの上富士交差点をわたって左折し、1つ目の筋を右折した裏通りにある(写真・下)。上富士交差点の北西側はす向かいには六義園がある。ギャラリーの南側80メートルにみえるのが駒込富士神社の社叢である。

 初めて訪れたのは、確か、2018年の秋だった。昨年秋の『平嶋彰彦写真展 — 東京ラビリンス』の打ち合わせのためである。それ以来、ギャラリーにはなんどか足を運ぶことになり、時間があるときはその周辺を歩いてまわることにした。

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ギャラリー「ときの忘れもの」は毎日新聞販売局に在籍していた綿貫不二夫さん、令子さん夫妻が1995年に青山で創立、その後駒込に移転し、26年目を迎えました。

 展覧会を開催中の11月18日、大学写真部時代の仲間との恒例の街歩きで、染井通りをはじめて歩いた。この通りは、六義園の角からまっすぐ北西方向にのびている。しかし、マンションが林立する街並みのようすから、近年に造られた道路と誤って思い込んでいた。このときの街歩きでも昭和の面影をのこすようなものは見あたらず、駒ゴルフガーデンにそびえるレバノン杉の大木と、その近くの「花咲か七軒町植木の里」と刻む石碑をアリバイ的に撮っただけだった。

 1週間後の25日、染井通りをもう1度歩くことになった。20年来の友人である詩人の中村鐵太郎さんが『東京ラビリンス』展を観に来てくれた。そのときに、彼の住む1938(昭和13)年に作られた共同住宅を一度ご覧になってみませんか、と薦められたのである。

 昭和の文化遺産ともいうべきその共同住宅は、染井通りから南に折れてJR巣鴨駅にぬける通りの途中、岩崎弥太郎墓地と三菱重工社宅の向かい側にあった。

 施主は東京帝大機械科卒の技術者で、三井金属に入社し、同社ベルリン支店に10数年勤務した。帰国後に、自宅住居を兼ねた欧米人向けの共同住宅の建設を試みたのが、この鉄筋コンクリート3階建の共同住宅だということである。南側の隣家は、1933年築の1戸建て高級住宅で、こちらも鉄筋コンクリート2階建の見るからに立派な近代建築だった。

 1878(明治11)年、岩崎弥太郎は六義園(大和郡山藩下屋敷)を払い下げた。六義園の西側に隣接していたのが藤堂家下屋敷(伊勢津藩)で、あとでわかったことだが、この共同住宅が建っているのはその屋敷地だった。1922(大正11)年、三菱財閥三代の岩崎久彌は、わが国最初の文化村ともいうべき高級住宅地「大和郷」を構想し、六義園周辺の大名屋敷跡を住宅地として整備し、これを分譲した。図書館もその文化村構想の一つで、2年後の1924年、東洋文庫(写真・下)を六義園近くに設立した。

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 そんなことから、これまでうっかり見落としてきた染井通りがにわかに気になりだし、『江戸切絵図』「染井王子巣鴨辺絵図」(尾張屋版、嘉永7・1854年)にあたってみた。Googleマップで照らし合わせると、染井通りの道筋は江戸時代の後半とほとんど変わっていない。通りの南側ほぼ全域が藤堂和泉守の下屋敷になっていて、西側のつきあたりに建部内匠頭の下屋敷がある。ここは現在の染井霊園である。

 それにたいして、通りの北側一帯は百姓地や自然地を示す緑色に彩色されている。こちらは通りの全体に樹木の図を配し、現在の駒込7丁目およびその東側の6丁目と3丁目には、それぞれ「此辺染井村植木屋多し」「同断」「同」と書き込んでいる。

 そのなかに1カ所だけ町家(町並地)を示す灰色に土地区分されたところがある。先にのべた「花咲か七軒町植木の里」の石碑のたつ3丁目8番地のあたりで、そこには「駒込七軒町」と記し、「植木屋」と添書きしている。ということは、江戸時代にはこのあたりが染井村の中心地であったと想像される。

 「花咲か」の石碑は、通りに面した小さな広場の門前に建っていた。よく見れば、新しいものである。なかに入ると、面積は広くないが、菜園風の趣に造られていて、水路やポンプ井戸があった。門には「私の庭みんなの庭」の表札がかかり、その下の案内板を読むと、この地域の人たちがボランティアで運営しているということである。

 ところで、「ときの忘れもの」のある本駒込5丁目のあたりはそのころどんなようすだったのだろうか。『江戸切絵図』をみると、現在の六義園は「松平時之助」の下屋敷になる。時之助は大和郡山藩の藩主で、六義園を造った柳沢吉保の後胤である。本郷通り(本郷筋)の六義園前に「テンチウトイウ」の書き込みがある。通り沿いは灰色の色区分で「上駒込村百姓町家上富士前町」とあるから、町屋が並んでいたとみられるが、その奥は緑色の色区分で、「此辺テンチウ」「百姓地ウヘキヤ多シ」と記している。

 「テンチウ」は「伝中」と書くのだという。5代将軍綱吉は、股肱の臣ともいうべき柳沢吉保が造ったこの庭園をたびたび訪れた。このときばかりはお伴の家来が屋敷の周りに数多く待機し、あたかも殿中のようだった。しかし、そのまま書くのは憚られるから、伝中とされた、ということである。

 「ときの忘れもの」と駒込富士神社は、この絵図では範囲外になっている。このあたりが載るのは、おなじ『江戸切絵図』の「東都駒込辺図絵」である。

 駒込富士神社はどこかというと、「駒込富士前町」の東側に鳥居と社殿の図を描き、「本郷真光寺」と記しているところがある。そこが駒込富士神社になる。真光寺はいまも本郷4丁目にある天台宗寺院で、明治の神仏分離までは、駒込富士神社の別当寺だった(註5)。

 ときの忘れものがあるのは、その北側になるわけだが、このあたりは緑色の土地区分になっていて、「此辺富士ウラト云」「百姓地」「植木屋多シ」とされている。

 1680(延宝8)年の『江戸方角安見図』「三十三・駒込一(本郷すし・ひがし方)」に富士神社がでてくる(註6)。この絵図では富士塚とその頂上に社殿を描いて「富士」と記し、その横にさらに「ふじ権現」とある。

 神社の北側は、嘉永の頃とはちがって、「堀丹波守」の大名屋敷になっている。「ときの忘れもの」がいまある場所も、その広大な屋敷地のなかに含まれるとみられる。『江戸方角安見図』には、本郷通りの西側にはなにも記されていない。柳沢吉保が将軍綱吉から拝領した土地に7年がかりで六義園を完成させたのは、1702(元禄15)年である。それまでは富士権現のほか、このあたりに見るべきものがなかった、ということかもしれない。