随筆集

2021年4月2日

ラグビー日本代表・キャップ第1号、名フルバックだった寺村誠一さん

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1930(昭和5)年9月3日付東京日日新聞

 まず、次の写真を見て下さい。

 「サンデー毎日」1930(昭和5)年11月2日号の表紙である。写真説明に、パント・キック【ラグビー遠征軍選手、寺村本社員】とある。

 91年前の1930(昭和5)年、ラグビーの日本代表が初の海外遠征を実施した。その代表選手に東大法学部を卒業、28(昭和3)年に入社したFB寺本誠一さんが選ばれたのである。

 もうひとり毎日新聞からFW岩下秀三郎さん(慶應義塾大学ラグビー部OB、30年入社)。2人は試合が終わると、原稿を書いて打電した。

 その第一報は、1930(昭和5)年9月3日付「東京日日新聞」にある。

 第1戦は、後半に逆転勝ちだった。「在留邦人も肩身が広くなったとで、その喜びはこの上もない」。カナダチームについては「背の高いことは勿論、体重が平均25貫以上(約94kg)、その上足が早いが、こちらが確実なタックルさえすれば、そう恐るべきものではないとの確信を得た」と書いている。

 終了後のレセプション。見出しに「番香坡で歓迎攻め/賞揚(しょうよう)されたスポーツマンシップ」。クレジットは「ヴァンクーヴァ―発」だ。

 初の海外遠征をした日本代表(香山蕃監督)の戦績は、6勝1引分けだった。10月15日、横浜港に帰国し、翌16日には神宮競技場で紅白試合、19日には花園ラグビー場で関西選抜と歓迎試合が組まれていた。花園には6000人の観客が詰めかけた、とある。

 凱旋したラグビー日本代表。「サンデー毎日」の表紙を飾ったFB寺村誠一選手は、W杯で活躍したFB五郎丸歩選手並みの人気だったのか。

 遠征中の成績は——。

① 9月1日 ○ 22-18 対バンクーバー選抜
②   6日 ○ 22-17 対バンクーバー選抜
③  10日 ○ 27-0  対メラロマ(バンクーバーのチーム)
④  17日 ○ 16-14 対ビクトリア選抜
⑤   20日 ○ 19-6  対ビクトリア選抜
⑥   24日 △ 3-3  対ブリティッシュコロンビア州代表
⑦  27日 ○ 25-3  対ブリティッシュコロンビア大

 日本代表選手の栄誉をたたえる「キャップ制度」は、1982(昭和57)年から始まったが、カナダ遠征の第6戦に出場した15+1の16人が、キャップ第1号の栄誉を与えられた。

 この試合、開始早々、⑪鳥羽善次郎(明大、のち東京鉄道局)がタックルの際、肩を脱臼して退場した。負傷交代は認められていない時代。カナダチームが選手を1人外したのに気づいた香山監督が15人に戻すよう申し入れたがカナダは聞き入れず、結局日本が鈴木秀丸を(法大)を補充。出場選手が15+1の16人になったのだ。

 その経緯は、この試合に出場した毎日新聞の2人の記者が速報した。試合は双方1トライずつだったが、日本代表の貴重なトライは、のちに毎日新聞のラグビー記者となる快足ウイング⑭北野孟郎(慶大)があげたという。当時トライは3点、だったのだ。

 ついでにトリビアをひとつ。寺村選手のジャージーの背番号は「1」だった。今なら「15」だが、当時、背番号はFBから始まっていたという。背番号「1」のジャージーは、日本ラグビーフットボール協会に保管されている。

 この毎友会HP「元気で~す」で佐々木宏人さん(79歳)の連載「ある新聞記者の歩み」第9回にある、寺村荘治さん(63入社)の父親「戦前のベルリン特派員寺村」は、上記の寺村誠一さんである。

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1930年ジャパン(左)と1991年撮影(『東大ラグビー部七十年史』から)

 寺村誠一さんは東大法学部を卒業して1928(昭和3)年入社。ベルリンには1938(昭和13)年から3年間駐在、41(昭和16)年に帰国した、と書き残している。

 戦後、東京本社資料部長を3年ほど。日本新聞協会発行の「新聞研究」に「新聞切抜の実際」を書いた。「切抜きのぎっしり詰まったケースは日毎成長する生きた百科辞典ということができよう」と、切抜記事の重要性を説いている。

 その後、東京本社欧米部長、大阪本社外信部長、論説副主幹を歴任した。『暗号名イントレピッド—第二次世界大戦の陰の主役』など早川書房から何冊も翻訳本を出版している。

 2003年8月23日逝去。カナダ遠征チームで最長寿の97歳だった。

 キャップ第1号の同僚、岩下秀三郎(のち毎日広告社社長)は1987年12月27日逝去、83歳。北野孟郎(元運動部デスク)は1969年6月28日逝去、57歳だった。

(堤  哲)