随筆集

2021年4月15日

ときの忘れものブログ:平嶋彰彦のエッセイ 「東京ラビリンス」のあとさき その11

この連載は毎月14日に更新されます。写真が多いので、抜粋を掲載します。

全文は下記のURLで検索を(後編は19日)
http://blog.livedoor.jp/tokinowasuremono/archives/cat_50035506.html

その11 私の駒込名所図会(2)八百屋お七と駒込土物店(前編) 文・写真 平嶋彰彦

 本郷追分は、中山道と日光御成道の分岐点になる。日本橋から1里の距離にあたり、1766(明和3)年に焼失するまでは、そこに一里塚があった。日光御成道は現在の本郷通りで、岩槻街道ともよばれた。本郷追分を越えると駒込で、次の一里塚は西ヶ原にあった。「ときの忘れもの」の所在地は、本郷追分と西ヶ原一里塚のちょうど中間点になる。

 2年前の6月になるが、大学写真部の旧友たちと白山と駒込の街歩きをした。このときの探索地に八百屋お七にゆかりがあるとされる円乗寺(白山1-34-6)、大円寺(向丘1-11-3)吉祥寺(本駒込3-19)が入っていた。

 八百屋お七の代表作とされる『天和笑委集』、『好色五人女』、『近世江都著聞集』、『八百屋お七恋緋桜』、『古今名婦伝』に目をとおすと、物語の概略は次のようになっている。

 八百屋の娘お七は、1682(天和2)年12月28日の大火で焼けだされ、一家とともに檀那寺に避難したとき、その寺の寺小姓と恋仲となった。年が明けて、実家にもどるが、恋慕のあまりその寺小姓との再会を願って放火、召捕られて、火あぶりの刑に処された。

画像
八百屋お七の墓。円乗寺。白山1-34。右の石塔は岩井半四郎の建立。2018.05.23

 円乗寺は、『近世江都著聞集』や『古今名婦伝』では、お七が避難した檀那寺とされる。境内にお七の墓がある。墓石は三基あり、中央の首がもげた仏像形の石塔は寺の住職が、右側の石塔はお七を演じて好評をとった岩井半四郎が寛政年間(1789~1801)に、左側の石塔は近辺の人たちが270回忌に建立したという。

 大円寺は、『天和笑委集』によると、天和2年12月の大火の火元とされる。山門を入ったところにほうろく地蔵がある。これはお七の供養ために、享保4年(1719)に渡辺九兵衛という人物が寄進したという。ほうろく地蔵のかたわらに庚申塔がたつ。こちらは本郷追分の一里塚にあったものを移したものだそうである。

 吉祥寺は駒沢大学の前身である栴檀林のあった曹洞宗の名刹である。『好色五人女』や『八百屋お七恋緋桜』では、ここもお七が避難した檀那寺とされていて、境内にはお七・吉三郎の比翼塚が1966(昭和41)年に建立されている(ph9、ph10)。

 大円寺から吉祥寺にむかう途中、本郷通りに面した天栄寺(本駒込1-6-16)の門前に、「駒込土物店」の石碑がたっているのが。なんとなく目に入った(ph7)。「土物店」というのは青物市場のことである。

画像
駒込土物店跡記念碑。天栄寺門前。本駒込1-6。2018.05.23

 あとで調べると天栄寺のあるところは、もとは麟祥院領駒込村の百姓地で、そこにさいかちの大木があったことから「一本さいかち之辻」と呼ばれた。近隣の農民たちが野菜を担いで江戸に向かう途中、その木の下で毎朝一休みするのが慣習となり、やがて付近の人たちがそこで野菜を買い求めるようになった。それが青物市場の始まりだいう。

 1660(万治3)年、その場所に天栄寺が本郷菊坂から移転してきた。本郷通りを隔てた東側が駒込浅嘉町・同高林寺門前であるが、そこにも土物店ができたことから、街道の両側一帯を駒込土物店と総称するようになった。やがて、町屋が許されるようになり、1745(延享2)年になると、それまでの領主支配から人別が江戸町奉行支配に変わった。駒込の青物市場は、かつては神田市場(現在の多町)を脅かすほど盛んだったということだが、1937(昭和12)年に巣鴨に移転した。

 前回にも書いたが、1854(嘉永7)年の『江戸切絵図』(尾張屋版)をみると、日本橋から本郷までの街道筋は市街地化されている。駒込まできてようやく農地や自然地の土地区分をしめす緑色があらわれ、随所に「植木屋多シ」の書込みがある。

 しかしおなじ駒込といっても、本郷追分から土物店のあった天栄寺の近辺までは、四方をびっしり家屋敷が立込んでいて、田畑や自然を確認することができない。駒込は江戸という都市空間が田園地帯と接触するいわゆる郊外の地であった。そして駒込という郊外を代表的な商売が植木屋であり、もう一つが八百屋だったことになる。

 八百屋お七の事件には異説が多い。異説が多いということは、事件の真相が分かりにくいことでもある。異説が多い原因として、江戸幕府の刑事判例集である『御仕置裁許帳』に記載がないことにくわえ、信頼にたる記録史料が見当たらないことがある。そうしたなかで、ただ一つ確からしくと思われるのが、戸田茂睡の『御当代記』である。

 この書には、1682(天和2)年の大火とその後の出来事については詳しい記述があり、翌年春のお七の事件についても、30文字たらずの短文であるが、次のような言及がある。

 「駒込のお七付火之事、此三月之事ニて廿日時分よりさらされし也」

 駒込の住人にお七という女性がいて放火の罪で召捕られた。事件はこの3月のことで、20日ごろ火刑に処され、遺骸はさらしになった。この箇所は追筆であるとされる。後日に噂話を耳にしたのだろうが、思うところがあり、書き留めたものとみられる。

 『御当代記』は5代将軍綱吉時代の様々な事件や世相をつづった見聞記で、1680(延宝8)年5月から筆をおこし、1702(元禄15)年4月で終わっている。その当時を知るうえで貴重な史料と思われるが、戸田茂睡の存命中に公開されることはなかった。

 当公方様ハ…天下を治めさせ給ふべき御器量なし、此君天下のあるじとならせタマハヾ諸人困窮仕悪逆の御事つもり、天下騒動の事もあるべし。

 家綱から綱吉への世継ぎを評した一文だが、思想表現の自由が許されなかった時代のことである。存命中の公刊など、思いもよらなかったにちがいない。茂睡の没後、自筆原稿は子孫の家に秘蔵され、1913(大正2)年になってから、佐佐木信綱がその存在を世に知らしめ、それより2年後、飯島保作による全文翻刻が『戸田茂睡全集』の一部として、国書刊行会から刊行された。

 『御当代記』にしたがえば、天和2年には2つの大火があった。1つ目は霜月28日、牛込川田が窪(現市ヶ谷柳町)より出火、四谷・赤坂・青山・麻布などの大名屋敷を次々と焼き払い、火の手は三田までおよんだ。

 物語や芝居で語り伝える八百屋お七の放火事件の発端となったとされる大火は、それよりちょうど1ヶ月後に発生した。こちらの火事は、

 極月二十八日、駒込より火出、本郷森川宿東がハ、それより本郷へ出、

 松平加賀守の本郷の上屋敷(現在の東京大学)を焼き払った、と戸田茂睡は書いている。さらに火の手は湯島をへて池之端、寛永寺黒門前から下谷へ延焼。そのいっぽう、南東方面にむかった火の手は、神田川の筋違橋、和泉殿橋、あたらし橋(美倉橋)、浅草橋を焼き落し、さらに、日本橋川の常盤橋前の町屋を焼いたあと、日本橋と江戸橋を焼き落した。それにとどまらず、飛び火して隅田川の対岸までおよび、両国の無縁寺(回向院)や深川の永代島八幡(富岡八幡)まで焼き払った、ということである。

 見逃せないのは、そのあとに掲げられた次の一文である。

 今年町同心八十人御ふちをはなたれ、あたけ丸のかこ丗人、この外方々の鳥見同心御ふちをはなれ候て、渇命いたし、火を付るとの沙汰なり。

 町同心は江戸町奉行所に所属する同心のことである。あたけ丸(安宅丸)は、この年に解体された全長30尋(57m)櫓100挺という幕府の巨大な軍船で、扶持を失った水夫(かこ)は、武士の身分であったとみられる。鳥見同心は、御鷹場で鶴・鴈・鴨などを飼育するのが役目で、かたわら町同心同様に隠密を兼ねたとされる。

画像
お七吉三郎比翼塚。吉祥寺。本駒込3-1。2018.05.23

 いずれも下級職といっても、江戸市中やその海辺を警護・防衛する幕府の正式な役人である。その百数十人が、身に落度がないにもかかわらず、とつぜん扶持を放たれ、路頭に迷うはめになった。その腹いせに放火におよんだというのである。あくまでも噂であるといっても、どうみても尋常な社会的情勢とはいえない。

 そのような不穏な噂を裏づけるかのように、年が明けても火事は続いた。しかもどれもこれもすべて放火であった。

 去年霜月廿八日・極月廿八日両日の大火事より正月ニ至二月迄毎日之火事、昼夜ニ五六度八九度之時も有、是皆附火也。

 そこで町々に命じて、1つの町に火の見櫓を2基ずつ揚げさせ、その上に町内の大家役の者を登らせ、火の用心の監視を申しつけた。しかし、なおも放火は治まらなかった。

 それと併行して、中山勘解由直守を火付改加役に任命し、配下の与力・同心とともに、横行する放火を取り締まらせることになった。火付改加役は、後の火付盗賊改のことであるが、その捜査の仕方を戸田茂睡は次のように書いている。

 中山勘解由父子三人組与力同心ともに、火付見出し候やうに被仰付候ニ付、様々姿をかへ江戸中へ入はまり、火付を見あらはさんと仕候

 さまざまに姿を変えて江戸中に潜入したというのは、とかく弊害の多いとされる目明しを使ったにちがいない。目明しは、与力・同心の手先で、多くは犯罪者を放免し、その代償として他の犯罪者を探索させたといわれる。

 お七が処刑された2ヶ月後の5月、戸田茂睡は火付改加役の中山勘解由の捜査と取調べの方法を改めて問題視している。これもやはり噂だろうが、誤って捕らえられる人が夥しかった。くわえて、容疑者の取調べには、ためらうことなく拷問が用いられた。とうぜんの結果、身に覚えがない自白を強いられた犠牲者が夥しい数におよんだ、というのである。

 火事場ニてうろん成ものをとらへさせらるゝに、あやまりでとらるゝもの夥敷事也。問諍つよくいわざるうちハ死ぬるまでせむるゆへ、とても死するものゆへ火付ニなりても苦をのがれんと思ひ、火付ならぬものも火付と云、科人ならぬものも科といふゆへ、科人多く人の損ずる事夥敷事也。

 火付盗賊改役が設置された当初、火付盗賊改は、容疑者を召捕ると、一通りの取り調べを行い、町奉行所に引き渡すことになっていた。火付盗賊改はいわば予審裁判所で、町奉行所は本裁判所の感があった、と法制史学者の瀧川政次郎は『長谷川平蔵 その生涯と人足寄場』でのべている。

 そうであったとすれば、お七の事件の場合も、裁判を正式に執り行ったのは町奉行所と思われるが、その前段の捜査と取り調べは、火付改加役の手になるものだったにちがいない。それが自白偏重主義に凝り固まっていて、かつ拷問を常套手段にしていたのであれば、お七が犯人とされた放火事件も、火付改加役とその配下の与力・同心・目明しが結託して捏造した冤罪であった、という可能性もないとはいえないのである。(以上、前半)