随筆集

2021年5月11日

「ミルクワンタン」ついに閉店。有楽町編集局……「すし横」時代の喜怒楽々 喧嘩。ノミシロ。ツケ。給料袋。しょんべん。増ページ。

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 有楽町時代の編集局入口は「飲み屋」の女将がわんさわんさと押し掛けた。毎月5日・25日、毎日新聞社給料日恒例の騒動が一日中見られる。ツケで飲み食いしたノミシロ(飲み代)をいただきに来ているのだ。出入りする編集局員……主に部長・副部長・古参記者連が女将に“逮捕”されては「払いなさいね!」と言われて渋々、給料袋から直接ナン千円かを渡さざるを得ない。ナン万円も溜まった大先輩も大勢いた。「こん次にしてくれんかなっ……」と泣き言で勘弁してもらったり……。

 基準外手当の入った毎月5日の給料袋を袋ごとそっくり女将に渡した大先輩と出会い二人で呵々放笑した。隣接の「丸の内名画座」(映画館)へ逃げ込んで難を逃れた部長もいた。輪転機のある地下を通って狭い階段を上がると映画館の裏に行けた(知る人ぞ知るルート)。ついでにタダで映画1本見ちゃう図々しサ。

 借金とり女将はほとんどが「すし屋横丁」の店である。「すし屋横丁(すし横)」は昭和20年終戦と同時に生まれた露天、バラック、1杯飲み屋(違法な400店近く)が整理統合を繰り返し、昭和23年(1948)誕生した。正しい名称は「有楽町商業協同組合」。抽選で選ばれた飲食店106軒。ずっと以前だが「思い出のすし屋横丁地図」をモロ(筆者)が作成して関係者に配ったこともあったくらい毎日新聞社には懐かしい“遊園地”(今で言えばテーマパーク)である。界隈は小便臭いのだ。ほとんどの客は店を出た所で立ちしょんべんをしていた。それがまた、いかにも毎日新聞社の会議室であり厚生施設のようでもあり……。

 「すし屋横丁」と言っても電気屋があったし、ホルモン屋、バー、洋食、すき焼き、喫茶店、雀荘……みんな知っているのが「吉田」「三友」「花柳寿司」「赤星」「照寿司」「げんぱち」「ミルクワンタン(鳥藤)」「フライパン」「地球」「だるま鮨」「有楽苑」「山楽」「ひろしまや」「珍萬」「宝来」「来々」「アキラ」「板門店」「ぽんぽん亭」「エーワン」「お喜代」・・。

 日劇側出入口近くにはマムシの生き血を飲ませるヘビ屋もあった。「げんぱち」なんぞは竹橋移転に合わせて九段に越してきた。「珍萬」をやっていたオヤジが涙を見せながら懐かし噺……「でっかい声で議論するブン屋さんの噺は面白かったア。焼き飯や中華そば、毎日新聞社へ連日出前したよ。食わねえまんまゴキブリ漬けになっていたメシ皿もあったなあ。ウチに来た記者なんかも傍若無人でねエ。俺がいちばんエライみたいな……ニュースでは聞けない秘密も聴いたさあ。いまだから言うけんどよ、あれは、よそで喋って、情報通だなんていわれちゃって……はっはっは」(昭和55年取材時)。テレビも普及していない時代の新聞記者は世間の花形だった。(上の写真=昭和30年代の「有楽町すし屋横丁」のメインストリート)

 有楽町駅前の「すし横」跡地に出来た「東京交通会館」には「すし横」にあった店が14~15軒もあったが、だんだん消えた。美味・加茂鶴を飲ませる「ひろしまや」は女将さん(故人)の娘が引き継いで今もやっていてモロもときどき飲みに行く(「ゆうLUCKペン」の有楽町特集号が置いてあるよ)。

 ついこの前閉じた飲み屋「吉田」はスシ横時代、中通りを北に行って右手にあった。毎日新聞の幹部が連日のように訪れた店で、最近も那須良輔画伯の貴重な直筆絵がたくさん飾ってあった。「隊長」と仇名のあった主人はときどき顔を見せていたが、もしかして逝ったかも? あの絵は相当の高値が付いたろうな。

 記者同士の新聞つくりに関わる議論・論争・喧嘩はいつものコト。どんなに喧嘩しても飲み代は先輩もちなのはアタボーよ、の世界。我々下っ端記者は飲み代を払った試しがない。そも、すし屋横丁へ同僚と行くなんてことはナイ。デスクや部長や1つ2つ3つ上の先輩と飲る。割り勘なんて言おうものなら張り倒されるから言わない。だからモロも昭和30年代、飲みに行って支払いをしたことはゼロ回。さんざん先輩を「アホかっ、考えが甘いっ」と批判しても、お開きになる際は先輩が女将の目を見て店を出ればおしまい。

 飲み屋の女将側も承知の沙汰。目配り一つ、このグループだとこの人、この仲間ならこの人、という具合にツケる人間が判っていた。店を出る際に「お金がひらひら」するお勘定シーンなど見たことがナイ。

 新聞も朝刊が16ページになり、夕刊が4ページになり……増頁増頁、編集局各部の記者も増員増員。ゆけゆけどんどんが先行、給料も少しづつでも確実に増額増額して、人間的にもマイナス風は吹かなかった。

 ミルクワンタンで有名な「鳥藤」が2021年4月23日を最後に「閉店」した(新聞報道で知る)。

 飲み屋の閉店がニュースになるのだから社会的価値が高い。敗戦直後の屋台から72年もつづいたんだからエライもんである。「鳥藤」はすし屋横丁の北側の端、入口から入って右側3軒目にあった(今で言えば有楽町駅京橋口の前)。

 その頃のミルクワンタンは細かく刻んだ鶏モツ煮を牛乳で煮込み、ワンタンを浮かした汁丼。これが酒飲みには美味しかった。栄養満点。二日酔いのモロなんぞは毎日食べて胃がすっきり。面白い紙面を作るぞ!という戦闘気分に燃えて編集局に出社した。現在は汁の出汁も多少違い、鶏モモ肉やらいろいろ上等の具も入っているようだが、昭和24(1949)年当時はそうはいかない。ワンタン以外は何も入っていなかったんじゃないか。あのころは1杯20円……昭和30年ころから30円? 40円だったか。ミルク(もしかして当時は脱脂粉乳?)の分少し高かった。この辺り、取材しないで書いているから間違いかも知れぬ(鳥藤さんごめんなさい)。閉店時は700円?

 初代と、それを継いだ息子さんも故人となり、息子さんの奥さんが最後まで取り仕切っていたと聞く。

 「鳥藤」は飲み屋というよりは、今で言うラーメン屋。当時はラーメンという言葉もなく「中華そば」(町に来る屋台は「チャルメラ」)。ここではツケというのはなく現金払い。モロも「鳥藤」ではカネを払った。だいたいに於いてこの店のナマエを「鳥藤」だと知っている人は少なく、誰もが「ミルクワンタン」と呼称していた。すし屋横丁は東海道新幹線開通時に取り壊され(最終的には昭和42年)、「鳥藤」をはじめ幾つかの店は東京駅よりのガード下(今の場所=有楽町高架下センター商店会)へ移転、「玉菊」「楽々」「末廣」「山楽」などと一緒にアーチ式看板には「鳥藤」ではなく「ミルクワンタン」と記されている(現在も)。

 うーん、ざんねん、最期の「ミルクワンタン」食いたかったなあ。現在のガード下も「すし横」に景色が似ているもんなあ。お店の壁にはモロ製作の「すし横地図」が極最近も貼ってあった。なんたって清酒はヤカン?から注ぎ、焼酎は一升瓶から減った分で支払い計算などなど、やることが粋なんだよな。

 有楽町編集局の頃、朝刊13版●●、最終版を降版すると午前4時半にもなっていた。それから出来上がり紙面をワシ掴みにして、すし屋横丁へ連れ立って出陣したのである。紙面の議論をしたあげくにミルクワンタンを食って電車に乗り帰宅した。ちょうど出勤ラッシュだったが反対方向なので座れた。いいあんばいに眠ってしまい、終点の浅川駅(今は高尾駅)まで行き、また東京駅に戻ってしまった「終点完全往復輩」もいた。

 すし屋横丁の店は縄張りがあり、毎日の店、朝日の店……が存在し「読売は外堀川を越えられぬ?」「産経新聞は中央通りを越えられぬ?」との噂が飛ばされていた。すし屋横丁はほゞ毎日と朝日が占拠している風だった。入社当時、先輩に「あそこの店は朝日だから行かないほうがいいぞ」と釘を刺されたものだ。

 ぐでんぐでんに酔っ払ったあげく読売の宿直室に泊まり込んだ先輩もいた。廊下で近藤日出造(政治漫画家)に出会って「オスっ」と挨拶したゾと自慢していた。毎日新聞のヤツは外堀川を越えて向こう側まで行きやがるん……。

 その頃の飲み屋の感じは店に入るとオヤジも女将も、客にまでジロっと見られて入りにくいんである。まだまだ「一言さんお断り」の習慣は当然あちこちに残っていた。馴染みの店だと扉を開けたとたん、店じゅうに笑顔が舞い、「らっしゃーーい!」大歓迎されるといった具合。ま、素性の判らぬヤツは入れてくれない。“一応”高級寿司屋を名乗っていた「花柳」などは部長以上しか入れなかった(デスク級も部長と連れ立って行ったものだ)。

 昭和30年代までだろう、自宅近所の魚屋も八百屋も酒屋も「ツケで買う」のがキマリになっていて月末集金というのが習慣。買い物は「ご用聞き」に注文したのであった。知らない家には売らない。知らない人は知らない……よく知ってる家には売る……飲み屋も同じである。

 それが「ミルクワンタン」は朝日も毎日も一緒に食った。カウンターに隣合わせに座って食った。馴染みの客の「紹介状」がなくてもミルクワンタンは通りがかりの人が自由に食えた。みんな黙して食っていたからかも知れぬ。

 ある夕方、編集局次長・高原四郎に「鳥藤」で偶然にも隣合わせしたことがある。高原さんも「ミルクワンタン」を食っていた。25歳も年上の大先輩だろうが、誰であろうが、気楽に冗談を言い合い、大笑い会話を交わす自由が有楽町編集局にはあった。

 高原四郎と隣合わせたモロが切り出して、石川達三の連載新聞小説“成瀬南平の行状”が掲載禁止になったトキの噺を伺った。この小説は昭和20(1945)年7月14日から1面で連載開始されたが、15回で休載となり、終戦(8月15日)の翌々日(8月17日)紙面に「都合により続稿を打切ります」と掲載されたのみ。休載の理由は判らず仕舞い。熱狂的人気を浴びた新連載モノだったから突然の休載に読者は驚いた。

 その後、小説の中身が「官僚・官界を批判」しているとして内閣直属の情報局の検閲に引っ掛かった「事件」だと知った。連載開始直後から「警告」「意図変更」の強い要求を毎日新聞は無視して連載を続けたのが内閣情報局の怒りを買った。何度も何度も呼び出しを食い連日情報局に足を運んだのが高原四郎。学芸部記者?高原四郎が石川達三担当で連載開始の当事者だったからである?(詳しいことは忘れた)。「事件」の委細は書くのが面倒なので省略するが、なんせ高原四郎の噺の経緯は面白かった。敗戦がらみもあって高原四郎は当局の拷問は避けられたとか。

 「モロオカ君っ、もう一杯食うか」。二人で二杯目のミルクワンタンをすすった。

 達三の小説中に「国民には我慢を強いていながら、軍人・役人は旨いもんを食っている」特別配偶が描かれており、高原四郎は新聞記者も多少なりとも様々優遇を受けている事象を挙げて苦悶していた。戦況を軍部の言う通りに報道していたコトと関係あり? 終戦後も編集局では闇ルートで届いたビールがじゃばじゃば飲めていたのはモロも知っている。
庶民の旨いもんミルクワンタンと石川達三と高原四郎は今も頭の中でくっついている。計4杯のミルクワンタン代は高原四郎が払った。

(諸岡 達一、文中・敬称略)