随筆集

2021年5月19日

「畏友、岸井成格君との半世紀」を福島清さんがFBに連載

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写真は2015年12月24日、毎日ホールでのつどいに出席した岸井さん
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 5月15日。89年前のこの日、犬養毅首相が暗殺された。乱入した海軍軍人は「話を聞こう」という犬養に「問答無用」と言って射殺した。49年前のこの日、沖縄は日本に復帰した。だが依然として米軍基地が「問答無用」とばかりに居座っている。2015年、沖縄の苦難の歴史と基地被害を渾身の思いで訴えた翁長雄志・知事に対して、当時の菅官房長官は「戦後生まれなので、沖縄の歴史はなかなかわからない」と言って、辺野古基地建設を強要した。

 そして3年前のこの日、毎日新聞OBでTBSニュースキャスターだったジャーナリスト・岸井成格さんが亡くなった。2015年、当時の安倍首相に忖度した連中が岸井批判の全面広告を出して攻撃した。だが岸井さんは断固として対決しひるみませんでした。

 岸井さんは、1976~1977年にかけて毎日新聞労組が再建闘争に取り組んだ時、「開かれた新聞」として再建することを目指した「編集綱領制定委員会」の組合側メンバーの一員でした。2015年に発行した「夢を追いかけた男たち―毎日新聞再建闘争から40年」で、岸井さんは「最近の『安保法制』その他の安倍晋三内閣の強引な政治運営、『小選挙区制』導入以降、目に見える形で進行する政治の劣化、そして何よりも政権のメディアへの干渉、介入、これに対する主としてテレビ・メディア側の萎縮ぶりは危機的な状況が続いている」と強く警鐘を鳴らしました。

 これより前の2007年、岸井さんは毎日新聞の広告企画特集で、小宮山洋子さん(元厚生労働大臣、衆議院議員)、山野正義・学校法人山野学苑理事長と鼎談しました。美容と福祉の融合を目指すという山野学苑の方針に、岸井さんは「生きがいの原点に」と評価していました。

 菅政権の暴走が続く今、岸井さんはどんな思いでいるでしょうか。

【岸井成格さんの父・寿郎さん①】

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故 岸井寿郎氏

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 1990年頃、岸井成格さんが私の職場にきて「親父は昔、東京日日新聞の印刷部長だった。参考になるかも知れないから」と言って、追悼集「岸井寿郎」(きしい・としろう)をくださいました。友人たち13人の追悼の言葉に加えて、慶子夫人の36ページもの「夫を偲んで」、そして遺稿4編などが掲載されています。

 読み返してみました。大正から昭和の激動の時代に立ち向かった寿郎さんの姿勢は、岸井成格さんに受け継がれていると同時に今の社会に対する警鐘のよう思いますので、いくつか紹介します。略歴は、遺稿集に年譜がありませんので、追悼文に書かれていることなどからまとめてみました。

 1891年5月28日香川県豊田郡常盤村(現・観音寺市)生まれ。香川県立三豊中、第三高等学校を経て、1917年東京帝国大学法学部卒、司法官試補を経て、1919年大阪毎日新聞社入社、1930年政治部長兼印刷部長、1937年退社。実業界へ。1942年香川2区から衆議院議員、1945年12月まで1期。以後再び実業界へ。1970年10月1日、79歳で死去。

 最初に6歳上の友人・山下芳允さんの「畏友、岸井君との半世紀」からです。

 <温情検事> 岸井君は帝大出の法学士ですが学校にはほとんど行かなかったので、独学でモノにした、といった方がふさわしいでしょう。卒業したといっても、免状も取りに行かずのままで、戦災で焼けていなければ、いまでも東大に残っているはずです。当時東大の卒業証書といえば、それだけで後光のさす自慢のタネになるのですが、目に見える証として、ふつうの人間なら後世大事にする証状とか勲章とかには、一向関心がありませんでした。

 学校などへは真面目に出ていなくても、岸井君の頭の良さは誰もが認めるところです。郷里の三豊中時代には、むずかしい函数の問題を見事に解き、それを完壁に解説したのは開校以来、岸井君が唯一人、と教師を驚嘆させ、いまだに語り草になっている、ということです。

 帝大卒業後はしばらくウロウロしていたようですが、地方裁判所の検事になりました。しかし岸井検事の成績はさっぱりあがりません。というのは、できるだけ前科者にさせたくない、という信念から、初犯者には彼独特のあの厳しい説教をして、ドンドン釈放してしまうからです。若冠20数才ですから、どんな説教をしていたんでしょうか……。
結局検察当局としては、成績があがらないということになり、そうした岸井君のやり方について、“びっこの鬼検事”として有名を馳せた秋山検事ともよくやり合い、喧嘩して遂に検事をやめてしまいました。その頃から岸井君は、強きには強く、弱きには弱く、というやり方を通し、自分の信ずるところを曲げませんでした。(つづく)

【岸井成格さんの父・寿郎さん②】

 <ケンカ寿郎> 喧嘩をしてやめてしまった検事の職から、一転して東京日日に入社。まず内務省づめになりました。時の内大臣は、地方官出身で勤厳真面目な男爵・湯浅倉平でしたが、向かうところ恐れるものなく、ポンポン歯に衣着せずモノをいう岸井君は、ここでも大臣と喧嘩してしまいました。そのために文部省にまわされたのですが、その頃私も報知の記者として文部省を担当しており、「一橋会」という記者クラブをやっていたため、岸井君とはよく顔を合わせていました。

 岸井君は、何も仕事をしない。夜は2時、3時までも銀座を飲み歩き、ほとんど発表原稿など書きません。それで私が原稿をカーボンで書き、控として一枚は手許に残し、上の一枚を彼が書いたようにして送る、というようなこともやりました。しかし、表面では何もしないかのようにみえて、こまかなことにもよく気づき、ものごとを大づかみに、大局から見ていました。やることすべて大ざっばな岸井君と、正反対に私はコツコツとやる方なので、われわれ二人は気が合ったのでしょう。

 大臣であろうが誰であろうが人見知りせず、相手が強ければ強いほど闘志をムキ出しにするので、ケンカが絶えません。ケンカ、といっても、もちろん信念を押しての口論、激論です.それでも文部大臣の中橋徳五郎(大阪財界の大御所で、大阪商船社長)には可愛がられ、仕事はせずに、よく碁を打ちに遊びに行っていました。岸井君の碁は、正式に教わったり、定石を鵜呑みに憶えるのではなく、自分の頭で考え、組立ててゆく、ケンカ碁の典型だったようです。

 当時、私がおりました報知は、部数70万を誇り、講談社の野間清治氏から三本武吉氏に移っていました。

 岸井君も東京日日の政治部でしたから、書かずのブンヤ岸井君との政治談義には熱が入り、相手が私でない普通の人だったら喧嘩にもなっただろうと思われる場面がいくらもありました。(つづく)

(福島 清)

※福島清さんのフェイスブックは
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