随筆集

2021年5月20日

ときの忘れものブログ:平嶋彰彦のエッセイ「東京ラビリンス」のあとさき その12(後編)

 私の駒込名所図会(3)染井吉野と霜降・染井銀座(後編)=註と記事、写真の一部略 文・写真 平嶋彰彦
全文は http://blog.livedoor.jp/tokinowasuremono/archives/53460857.html

 染井の長池から発した谷戸川は、巣鴨や西ヶ原からの湧水や下水(したみず)を併せつつ、染井通りを遠巻きにする形で、北から東へ向きを変えながら、現在の染井銀座から霜降銀座を流れた。霜降橋交差点は本郷通りが谷戸川を渡るところで、かつては霜降橋が架かっていた。その先が谷田川通りで、東南に流れて、中里から田端にいたる。さらに日暮里付近で向きを南に転じ、谷中(台東区)と千駄木・根津(文京区)との境になっているよみせ通りやへび道などの道筋を流れたあと、上野の不忍池に注ぎこんでいた。川の名前は上流の駒込付近では谷戸川または境川、中流の田端付近では谷田川、下流の谷中・千駄木・根津付近では藍染川と呼ばれていた。

 現在、谷戸川は源流の長池から不忍池にいたる流路のすべてが暗渠になっている。

 この川は水はけが悪かった。そのため、大雨が降ると、下流の谷中・千駄木・根津付近では、しょっちゅう氾濫し、町中が水浸しになった。

 タウン誌『谷中・根津・千駄木』は第3号で、暗渠化する前の藍染川(谷戸川)について、古老からの聞書きと地元で集めた史料により特集を組んでいる。下記の引用は、そのうちの1つである。

 明治末まではあさりやしじみが採れ、小魚が釣れた。子供は泳いだり水浴びをした。…大正5年8月、大雨が4、5日降り続いたが、川沿いに二階家が少なく、天井裏に寝起きしたり素人作りの筏まで出た。そこで地元の衆議院議員秋虎太郎氏を動かして官庁に町ぐるみの請願を行ない、大正7年から排水工事を始めて、千駄木地区は9年10月に暗渠化された(野口福治さん(故人)「ふるさと千駄木」より、明41年生、茶舗野口園)。

 いい方を変えれば、明治から大正になると、あさりやしじみは採れなくなり、小魚も釣れなくなった。明治末というのは、染井霊園の周りの寺院が東京の市中から移ってきた時期にあたる。おそらく谷戸川に沿ったあちこちで、それまでの田園地帯から市街地への転換が急速に進んでいたものと思われる。千駄木では、1918(大正7)年から谷戸川の排水工事がはじまり、2年後に暗渠化されたのは、筆者が書いているように、町ぐるみの請願が功を奏したのかもしれない。しかし、この地域の水害対策は昨日今日のことではなく、かなり以前からの懸案事項であったようにみられる。

 というのも、その洪水より3年前になる1913年、東京市は藍染川(谷戸川)による谷中・千駄木・根津一帯の水害対策として、「藍染川上流より谷中初音町四丁目を経て荒川にいたる排水路」という工事計画を立案しているからである。

 この計画書を読むと、以前からこの川はしばしば氾濫をくりかえしていたことが分かるのだが、同書では氾濫の原因をこんなふうに説明している。

 藍染川は染井・西ヶ原両高地に発し、流域は甚だ広大であるが、市内谷中・根津の地に入ると、その水路は流量に比べて甚だ狭小であるのみならず、構造が極めて粗悪であることから、一朝大雨に際会すると、雨水を排除することができない。その結果、沿川の谷中・根津一帯に氾濫をもたらし、その被害面積を測定すると約7万1千坪にもおよぶ。

 では、水害を防ぐ具体策はなにかというと、氾濫の常襲地域の手前に分水装置を設け、それまで不忍池に注いでいた流路を変更し、荒川区内を経由させ荒川(現在の隅田川)に放流しようというのである。河口の三河島には、この計画書の立案された同じ年に、汚水処分場(現在の水再生センター)が完成する予定だった。そこで、流路を変更した谷戸川の水を、この処分場で浄化してから放流することを考えたのである。

 故ニ本計画ニ於テハ下谷区初音町4丁目ニ分水装置ヲ施シ、新ニ府下三河島ニ至リテ荒川ニ合流スル延長1千658間余ノ大排水路ヲ設ケ、一朝豪雨到ラバ上流全部ノ雨水ヲ之ニ導キテ荒川ニ放流し、分岐点以下ノ水路ハ単ニ本郷台及び上野台並ニ沿岸ヨリスル雨水並ニ汚水ヲ収容排セシムルコトトセリ。

 下谷区谷中初音町4丁目は、現在の台東区谷中3丁目である。ここは道灌山の南東にある低地で、道灌山を越えた北側にJR西日暮里駅がある。計画書でいう分水装置とは、道灌山から西日暮里駅の地下に通じる「藍染川トンネル」のことである。

 この「排水路」計画の考え方に疑問がないわけでもない。というのも、川の流量に比べ川幅が狭いというなら、川幅を広げるとか、川底を浚うなどの改修工事をすればいいからである。しかし、そうはならなかった。土地買収の経費や下水管敷設の工事費が莫大になるのみならず、工事そのものの困難さが予想されたからだというのである。

 在来水路を取拡ケントセバ勢沿岸ハ多大ノ土地ヲ買収セザルベカラザルノミナラズ、下流吐口神田川ニ達スル迄長距離ニ亘リテ広大ナル下水管ノ築造ヲ必要トシ其工事費莫大ニシテ工事亦甚ダ困難ナルヲ免レズ。

 谷中から三河島にいたる新たな水路は、京成電鉄本線に沿って開削され、上記のように、排水は三河島の汚水処理場で浄化し、荒川に放流された。この計画の実施により、文京区・台東区側の千駄木・谷中から不忍池までの流路は暗渠化され、沿川一帯の人々は水害の危険から解放されることになった。

 そのいっぽう、新たな問題も生じた。どうしてかといえば、そのころには京成沿線の荒川区内でもやはり市街地化が進んでいた。西日暮里から三河島の汚水処理場までの水路は、行政的には下水道である。にもかかわらず、沿川住民の生活感情をないがしろにし、蓋をかぶせない状態のまま、長年にわたって放置していたからである。

 谷戸川の上流にあたる駒込や染井の一帯では、1931(昭和6)年に埋立工事がはじまり、1940年までには暗渠化された。現在の霜降銀座と染井銀座は、その流路跡につくられた商店街である(ph12~20)。川添登は小学校1年のとき、駒込から西巣鴨へ引っ越した。その1年後に谷戸川の埋立工事がはじまったことになる。(註20)。

 駄菓子屋の前の道をさらにすすむと谷戸川にぶつかり、川に沿って下ると霜降橋へでるが、その途中に活動写真館があったり、サーカスが小屋掛けする場所があったりで、いわば場末の繁華街になっていた。谷戸川は、川とはいえ、角材と板材とで土留めされた底を、雨でも降らない限り、わずかな水がちょろちょろ流れるだけのものになっていて、私たちはドブ川とよんでいたが、たまにはオタマジャクシが泳いでいて、それをとったりもしたのである。

 駄菓子屋の前の道というのは、本郷台地の上にある染井通りから谷戸川へくだる染井坂通りのことである。川添登の一家がこの坂道の中腹に引っ越してきたのは、連載その10で書いたように、関東大震災の直後であった。それまでは、谷戸川に沿って田んぼが続いていたが、川添が子どものころには、すでに民家で埋まっていた。とくに染井坂の下には、長屋が建ちならんでいて、それをバラック呼んでいたともいうことである。

 現在の霜降銀座と染井銀座になっている一帯は、おそらく関東大震災のあと、東京市中からの人口の流出現象にともない、本格的に市街地化したものと思われる。

 『コンサイス東京都35区区分地図帖』は、戦災焼失区域を赤く色分けして表示した区分地図である。連載その1で書いたように、『東京ラビリンス』のもとになった『昭和二十一年東京地図』の取材では、いつもこの地図を持ち歩いた。

 この『地図帖』をあらためて見てみると、1945(昭和20)年の米軍による空襲で、川添登が記憶する谷戸川沿いにつくられた「場末の繁華街」をはじめ、駒込・巣鴨一帯のあらかたの地域が赤く塗りつぶされている。罹災を免れた箇所は、染井霊園とその南東側に隣接する高級住宅地、伊藤伊兵衛政武の墓のある西福寺と染井稲荷神社の境内など、ごくわずかしか確認することができない。

 終戦後の1951年、朝鮮戦争が勃発した翌年になるが、商店街の店主を中心に霜降銀座栄会が設立されている。染井銀座をふくめ、戦災で壊滅した「場末の繁華街」が、現在のような家族連れでにぎわう商店街へ再生する足がかりをつくったのも、そのころではなかったかと思われる。

 それ以上の詳しいことはわからないが、都心の繁華街に眼を向けると、この年の12月、銀座界隈の露店が取り払われ、その替りに三十間堀埋立地の露天デパートに移転することが決まっている。都内にはそれまで7000余りの露天商がいたとのことだが、そのうちの約4500がすでに「自発」的に廃業し、新宿・上野ではすでに協同組合のデパートに移転したともいう。それより4ヶ月前の8月、東京都は御茶ノ水駅下の谷間・上野寛永寺の墓地(「葵町」)・浅草の隅田公園(「アリの町」)などにあったバラック建築を年内に撤去することを決めている。朝鮮戦争による特需景気を契機にして、終戦直後のいわゆる闇市時代は終わりをむかえつつあったのである(以下略)。

画像
染井商店街。昔ながらの魚屋二木商店。駒込3-29。2012.12.08