随筆集

2021年5月21日

福島清さんの「岸井成格さんの父・寿郎さん」その2

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 岸井寿郎さんの6歳上の友人・山下芳允さん(報知新聞記者)の「畏友、岸井君との半世紀」から、の続きです。

 <ハシゴ酒>

 書かずのブンヤ、青年記者岸井君は文字通り夜を日についでのハシゴ酒。そんなわけですからいつも給料袋に入っているのは、前借金の紙キレばかりです。それも毎月、毎月。たまにお金を拝めても、10円そこそこ。これで生活のできるはずがありません。岸井君の妻君は偉かったのですねェ。金ならぬ前借金の書付の束をポイと渡されて、どうやって生活を工面していたんでしょうか。

 あるとき、いつものように月給袋を渡すと、珍らしく前借伝票の中に12円。そこで妻君「これっぽっちでどうしようもありませんネ」「オオ、それなら芝居見に行こう!」とあり金はたいて本郷座に出かけ、それでチョン。

 岸井君は家のことなどおかまいなしに、バー「ライオン」や「マンハッタン」、台湾喫茶店とでもいうのか「ウーロンチー」などで、小さな身体に酒を注込む毎日でした。私はこれまた反対に、酒がまったくイケず、夜、岸井君とつき合うことはまれでした。が、あるときなど岸井君は、結婚して目も浅い私の家を夜中の1時、2時に襲い、玄関の戸をドンドンたたいて起こします。酔っている彼は、大声で叫ぶは、友人が子供の土産に持ってきたヨコブエいたずらしてビーピー吹くはで、近所迷惑もはなはだしく、アルコール類を一滴も置いていない私の家では、家内もずい分面喰ったようです。

 また、大臣以下、役所の幹部と記者団とが会合したある有名な料亭では、相当高価な柴檀の茶ぶだいの上に乗り、はねるやらとぶやら、果ては鞍馬式に仲間とともに騒ぐやらで、とうとう茶ぶだいをこわしてしまいました。数日たって、私は、そこの女将と文部大臣室の前でバッタリ会いました。女将が何をしにきたかは、いうまでもありません。以来、岸井君の奇行(?)はちょっと減ったようです。しかし奇行は減ってもハシゴ酒だけは延々と続いていました。後に胃腸をこわす大病をしましたが、下地は充分すぎるほどできていたわけです。

 岸井君のハシゴ酒についていける生身の人間は、新聞社に酒豪多しといえども、そういませんでした。このことだけでも、岸井君の飲みっぷりがうかがえます。毎日新聞の記者に、イトキンなどという豪の者が多くいて、岸井君のフトコロ目当てによく飲み歩いていたらしいのですが、あるときはさすがの岸井君も、もうこれ以上つき合いきれない、とみるや、次の飲屋に行こうと誘うイトキンを振りきるために、走り出そうとする市電に駆け寄って一人だけ飛び乗ってしまいました。当時の市電にはドアがなく、柱がついているだけでしたので、柱につかまって逃げ去る岸井君めがけて、イトキンは「スリだァ。スリだァ。今その電車にスリが乗ったぞォ!」と、どなったというのです。電車に乗った岸井君は車内の人にジロジロにらまれ、大弱りした、と翌日記者クラブで話していました。最近会ったときにもその話が出て、私は「それはキミ、嘘じゃない。キミの名は寿郎、すろうだから」と大笑いしたものです。(つづく)

 <日本一キレイな紙面と首切>

 当時の新聞の刷りは全国的にみてキタなく、東京日日新聞はもとより関東大震災の影響もありましたが、震災にあわない新聞社の新聞も例外ではありませんでした。これは大きな問題で、岸井君はその仕事におおいに生きがいを感じ、男として取組みました。とはいえ、岸井君にしてみれば、華やかな記者生活から、むしろ地味な印刷の仕事であり、法律こそ勉強したが印刷はまったく未知の世界。しかもきわめて難問題をかかえている時期に、彼一流の“強気”で工務部長として乗込みました。

 例のごとく、当座はほとんどこれといった仕事もせず、3月、半年と、酒にあけて酒に暮れるという毎日だったようです。ところが実は彼の偉いところなのですが、毎夜印刷、工務部の上級幹部一人一人をつれては銀座で飲み歩き、ドジョウすくいを踊ってはいても、決して酒にのまれることなく、それらの人々から印刷技術の数々、仕事に対する態度、働き振りをつかんで、改善の急所を学び、研究していたのです。

 そしてその間、改革についての腹をきめ、これを実行に移し、まず、古い幹部をスパッとやめさせてしまいました。随分思いきったやり方です。しかし、岸井君の考えでは、能率が上がらず、紙面の刷新がなされないままでいるのは、それまでのやり方が悪く、幹部の責任でもある。彼等に代えて若い人をドシドシ登用する。幹部に支払っていた給料との差額がだいぶ出る。これをすべて若い人にまわす。それで仕事もバリバリやらせる。毎日何もしていないようにみえた岸井君は、毎日新聞の工務部、というより、日本の新聞のキレイな紙面づくりのために案を練り、腹を固めていたのです。活字、インク、用紙、輪転機、ありとあらゆる点について納得ゆくまで研究し、それも机上のプランではなく、自分の目で確めて実行したのです。ボタン一つで色々な工程が流れる作業をする機械もアメリカからイチ早く購入し、われわれの目を見張らせました。岸井君の研究は工務だけにとどまらず、販売、その他にまで及んでいます。今でも、毎日新聞の紙面はいちばんキレイだと思います。新聞全体では、また逆もどりの傾向にあるのは、残念です。

 ともかく、岸井君は、当時日本一キレイな新聞、という偉業を打ちたてたのであり、本山彦一社長はいたくその功績をたたえ、社員一同の前で金一封(中味は彼の前借伝票で棒引)と記念品の金時計を贈った、とのことです。

 戦後は新聞界から去り、鉱山事業を手がけました。もちろん、金など身についてはいません。とくに山形の硫黄の山を引受けたときなども、きわめて平気な態度であっさりといったものです。「オイ、オレの香典と思って5万円出せ」。当時同期の友人はそれぞれ相当の地位についている年輩でもあり、そうした友人をまわり歩いて金を集めました。後にヤマを松尾鉱山に手放すことになったとき、岸井君は借りた金を3倍から5倍にして、キレイに返しました。金に執着しない岸井君らしいやり方です。

 その岸井君にも、ひとつの大きな夢がありました。岸井君らしい大きな夢です。家に来ないかと電話があって出かけると、きまって小笠原の地図を広げていました。2年前の夏、元気に小笠原に出かけて行ったほどです。

 「海は澄んでいるし、魚はうまいし、気候はよし、空気もキレイだ。オイ、お前も行ってあそこに保養所を建てよう!」などと、島の話をするときは、童子のように顔をほころばせていました。

 尊敬する友人を持った私は幸せでした。それだけに、いまの寂しさはひとしお身にこたえます。(つづく)

*岸井印刷部長のことは、元東京日日新聞政治部員・岡田益吉さんも書いています。
岡田益吉さんの回想

 <印刷部の根本改正>

 昭和6(1931)年9月、満州事変勃発とともに、岸井氏は政治部長となった。恐らく氏の親分であった城戸元亮主幹(昭和3年主幹となる)の抜櫂によるものと思う。氏はこのことと関係はないが、「城戸さんは面白い人事をやる人だ」といったことがある。氏を政治部長とした城戸氏に知己を感ずるとともに、「自分のような八方破れのものをよく政治部長にしたものだ」という含みの意味もあったようにきこえた。

 岸井政治部長はあの満州事変の激動期に印刷部長を兼務していた。政治部副部長には柔軟性のある久富達夫を抜櫂し、この剛の岸井部長と柔の久富副部長ぐらい名コンビはなかった。当時の東日政治部は、「猛将の下に弱卒なし」で、手のつけられぬサムライ記者が雲集しており、何れもよく働いた。政治部のことは後回しとして、岸井印刷部長は、多年禍根となっていた印刷部の根本的改革に氏特有の蛮力をふるった。

 第一に印刷部の資材のヤミ横流しなどをビシビシやっつけた。ひどいときは名うての乱暴職工を工場のコンクリートの柱に縛りつけるという思い切ったこともやった。こういう強圧も加えたが、 一方能率を上げた職工20数名に懐中時計を身銭を切って与えたりした。ガンコおやじ然とした氏の半面に涙もろい温情主義がかくされていた事実は、親近した若い連中はよく知っている。氏はこういう温情なり憐憫の心を表面にあらわすのを絶対に好まなかった。いつも自分の愛情をそっと示すやり方をし、しかも、その方法は行届いた適切なものであった。

 この印刷部の改革は、東京日日新聞(当時は大阪が毎日新聞本社で、東日は東京支社となっていた)に月々5万円(時価で5億円)の黒字をもたらし、従来、大阪本社から補填されていた赤字を解消してしまった。かくして、東日ははじめて大阪本社から経済的に独立したのである。主幹の城戸元亮氏も営業局理事の吉武鶴次郎氏も手を打って心から喜んだ。本山彦一社長は岸井氏に金時計を贈ってその労をねぎらい、大阪印刷部の改革も依頼したが、これだけは岸井氏は最後まで断っていた。

 この印刷部改革は、岸井氏の社内における確固たる地位を築き上げ、本山社長をはじめ、城戸、吉武両重鎮の信頼を、一身に担ったと思われる。そればかりでなく、東日の印刷面のいちじるしい刷新は他社の注目するところとなった。社内的に財政上の赤字を克服しただけでなく、紙面の鮮明さは格段で、当時新興の気運に乗っていた読売新聞社長正力松太郎氏も、これに着目して、大胆にもライバルである東日印刷部長岸井氏に強引に会談を申込んだ。

 ここに斯界の両鬼才である正力氏と岸井氏との出会いが行なわれたのである。正力氏は顧間の小野瀬不二人氏とたった二人で、丁重に岸井氏を迎えて、印刷面の改革方法について教えを乞うた。岸井氏はただこう答えた。「印刷工場に金を注込んで設備をよくするだけではタメです。要は人にある。正力さん、貴方が直接工場に乗込んでやらなければ、決してよくはならない」と。

 それから精力的な正力氏は陣頭指揮で工場に臨んだ。社長が大組みまで立会うほどの熱意であった。読売の紙面はみるみるうちに進歩した。なお岸井氏は停年になった束日の優秀な印刷工員を推薦して読売の工場に送込んで、正力氏を援助している。「要は人である」というのが氏の人生哲学だ。

※岸井成格さんは、この2編を読ませたかったのでしょう。当時、毎日新聞東京本社は活版からCTSに完全移行しました。制作方法が変わっても、「『要は人である』ことを貫け」と言いたかったのだと思います。「印刷部改革」のことは「毎日新聞百年史」(1972年刊)「技術編」には見当たりません。それだけに貴重な証言です。

余談。「活版は昭和とともに去りぬ」でした。「昭和」は1989年1月に終りました。活版制作の毎日新聞は、昭和が終わった年の12月11日付の群馬版、栃木版が最後でした。この日は、私の51歳誕生日でした。当時、CTS移行の活版側責任者でしたので、最後にCTSに移行する面の日程について、この日にすることを主張したところ、あっさり決まりました。本当は私の出身地である長野版にしたかったのですが、それは編集局側の事項ですのでダメでした。毎日新聞の活版制作の最終日が私の誕生日であったことは、誰も知りません。私だけの活版惜別記念日です。

(福島 清)

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