随筆集

2021年5月24日

社会部旧友、宗岡秀樹さん(73)の「弟の孤独死」が、滝野隆浩・専門編集委員の連載『掃苔記』に

 『掃苔記』(2021年5月23日付け)に登場する「退職した先輩記者のМさん」は、航空部長などを務めた社会部旧友、宗岡秀樹さん(73)です。毎日新聞リタイア組を中心メンバーとする季刊同人誌『人生八聲』春季号(26巻)に掲載された体験記を基に、滝野編集委員が取材しました。宗岡さんの同人誌原稿を転載します。

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緊急事態宣言下の最悪事態~たった一人の弟の孤独死  宗岡 秀樹

 新型コロナウイルス感染症緊急事態宣言が出されていたさ中、独り暮らしをしていた9歳下の弟が自宅マンションで寂しく逝った。生涯独身。誰にも看取られず、たった一人の肉親である私にさえ、親しく付き合っていた友人たちにも別れを告げることもなく63年の生涯を終えた。自らが意図しないままの姿で見つかった時には約1カ月が過ぎていた。若い時から年2回は海外でスキーを楽しみ、仲間とお酒を酌み交わすことが大きな喜びだった。3年前にリタイアしてからはその度合いはさらに高くなったようだ。だが、昨春来の不要不急の外出自粛、長い巣ごもりでそれがかなわなくなった。ストレスをため込み、孤立し、命を縮めることになったのではないか。ある意味、コロナ禍の犠牲者だ。「もっと連絡を密にしていれば…」「苦しんだだろうに。なぜもっと早く気づいてあげられなかったのか」。自問自答し、悔やんでも悔やみきれない思いが駆け巡っている。

 弟の様子がおかしいと気付かされたのは、2月のある日の夜、よく一緒に酒を飲みに行ったというサラリーマン時代からつながる仲間からの電話だった。 2週間ほど前から電話しても出ず、LINEでメールを送っても「既読」がつかない。その後も何回か連絡を取ろうとしたが同じ結果だった。前日にも若い仲間がマンションまで行って、インタホンを押しても応答はなかったという。「私たちではもうどうしようもありません。心配なのでお兄さんに確認してもらえませんか」というものだった。

 直ぐに携帯、固定電話で連絡を取ろうと試みた。しかし、留守番録音に切り替わってしまい話は出来なかった。

 弟は会社を定年退職してからは再就職せず、〝隠居生活〟を送っていた。時には慕ってくれた飲み友達たちと、時には一人でお酒を飲む暮らしを続けていたようだ。飲んでいて夜と昼が逆転したことが結構あった、と私に話していたのを思い出した。これまでも電話しても出ないことがままあった。つながらなくても「また酔っぱらって寝ているのだろう」。若干の胸騒ぎはしたものの私自身を慰めその日は寝た

 翌朝、やや陰鬱な思いを抱きながら弟のマンションに行った。オートロックのドアの前でインタホンを押した。が、やはり応答はない。鍵を預かっていないので管理人に事情を話して開けてもらえないか頼んだ。管理人も鍵を持っておらず「開けるには『カギの百十番』という鍵開け業者に頼むしかありませんが、お金がかかりますよ」という。もどかしい気持ちを抑え、直ぐに電話するようお願いをした。しかし、警察官の立ち会いがないと開けられない、とのことだった。

 そこで今度は私が最寄りの警察署に電話した。

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 それまでの状況を詳しく説明すると、相手は私を落ち着かせようと、丁寧な口調で「安否確認ですね。こちらもいろいろ準備が必要なので少々時間がかかりますが待っていてください」との返事だ。「早く会いたいのに」。心急くばかりの中、小一時間経ってやっと屈強そうな警察官一人がやってきた。新型コロナだけでなくその他の感染症を含めての対策や部屋の中に賊が潜んでいる可能性も考えてのことか、かなりの重装備だった。

 屈強そうな警察官、管理人、管理人が呼んでくれた管理組合の役員、そして私が見守る中、鍵開け業者の作業員が開扉に取りかかった。てっきり鍵穴からピンセットのような小さい器具を使って開けるのかと思ったがそうではなかった。ドアスコープのレンズを外し、その穴からL字型に曲がった鉄棒を差し込んで操作した。ドアノブのサムターンを内側から動かそうと何回か試みた後、カチッという音とともにロックが外れた。ノブを回してドアが開いたかと思ったら、ドアチェーンがかかっていた。この時点で弟は中にいる可能性が高いと悟った。「部屋で寝ていて、何事もなかったかのように出てきてくれ」「弱っていて動けないのか」。「それともまさか?」……。期待と不安が錯綜した。

 ドアチェーンに挑んだ作業員は「これは厄介なんだ」と言いながらテグスのような細い糸を引っ掛けて外そうとしたが、難儀しているようだった。繰り返し、繰り返し試行した後、チェーンが外れてドアが開いた。

 すぐに入って弟に会いたかったが、警察官に制止された。私たちは何も触らないよう注意を受け、ドアの外で待機させられた。警察官は一人で中に入り、ゆっくりと部屋の点検を始めた。隠れているかもしれない不審者に襲われないよう警戒しているのか、慎重な足取りで奥へと進んでいった。

 警察官が再び姿を現した時には相当な時間が経過したように思われた。そして重苦しそうな口調で「奥の寝室のベッドの脇で仰向けに倒れられていました。ちょっと日数が…」と話した。

 覚悟をしていたとはいえ、危惧していたことが現実になってしまった。最悪の事態を知らされた時、幼い頃に一緒に遊んだこと、いつもニコニコしていた様子などがにじんだ風景の奥に思い出され、悔しさと悲しさが一挙にこみあげてきた。

 弟は昨年1月にイタリア北部ドロミテ・バルガルディナで、3月にはオーストリア・チロルのサンアントンでスキーを堪能していた。少なくとも昨春までは並大抵の体力ではないほど元気だったはずだ。それが長い巣ごもり生活で酒量が増え急激に老け込んで消耗したに違いない。「年を重ねただけでは人は老いない。理想を失うとき初めて老いる気がする。そして希望を見い出せなくなったら生きる気力を失う」――の言葉が痛く感じられた。

 警察官は直ぐに救急隊と刑事課に連絡した。先に駆けつけた救急隊員3人が室内に入ったあと刑事一課、鑑識課の計3人の警察官が到着した。刑事一課の警察官はしばらくして出てきた救急隊員に質問していた。そのやり取りが聞こえた。

「中でどんな処置をしたのですか?」
「はい、心肺蘇生を試みました」
「で?」
「蘇生しませんでした」
「AEDは使わなかったのですか」
「信号が出なかったので使いませんでした」。救急隊員は持ってきた担架を広げることなく縦にしたまま引き上げていった。

 代わって警察官たちが中に入り部屋の中の検証を始めた。鑑識課員の検証が続く中、私は玄関先で刑事一課の警察官から「遺体には外傷や争った形跡もなく、密室だったので事件性は薄いと思われます」と告げられた。そばに解熱剤が見つからなかったことなどから新型コロナ感染症でもないという。

 その警察官は「ご遺族と関係者の方へ」と題した見開き1枚のパンフレットを渡し、私の事情聴取を始めた。

 パンフレットの表紙には「法律に基づいて警察が行う手続きや埋葬の手続きを説明し、ご理解をいただくために作成したものです。」などと記されていた。

 中面左には「遺体発見から火葬・埋葬までの手続き」として事件性が疑われる場合とない場合の流れ図が示されていた。右面は「なぜ、警察がご遺体を調べるのですか」「なぜ、家の中を調べたり、写真撮影をするのですか」「なぜ、病歴や生命保険の加入状況などを聞くのですか」「なぜ解剖するのですか」という4項目の質問にその答えが書かれていた。

 パンフレットの内容に沿って説明を受けたあと、弟の部屋を訪ねることになったいきさつや生活ぶりのほか、「最後に会ったのは? 話をしたのは?」「兄弟の仲は?」「生命保険はどうでしたか」などと細かく聞かれた。

 2、3時間が経過しただろうか、やっと中に入れてもらった。初めて踏み入れた弟の部屋はタバコの臭いがきつかった。少し散らかってはいたが、生ごみも残っておらず、〝男やもめ〟の部屋のわりには思っていたほど汚れてはいなかった。

 寝室に案内され、ベッドの脇でパジャマをはだけさせて変わり果てた姿で横たわっていた弟を目にした時、頭が真っ白になった。声も出なかった。以前の面影は全くなく、目がくぼんだ顔をまともに見ることができなかった。ただ、真冬だったせいか想像していたほどには傷んでおらず異臭もそれほどではなかった。

 私が放心しているように見えたのか、「もう一度しっかり顔を見て身元確認をして下さい」と警察官に促された。ミステリードラマじゃあるまいし、別人が代わって倒れていたとは考えられない。発見された状況から見て弟に間違いないと思ったが、実は顔を見ただけでは確信が持てなかった。返事をためらっていると「身体的特徴は?」と聞かれた。「確か左手の甲に黒子が…」と答えると、警察官は弟の手を取り黒子を見せながら「それで間違いありませんね」と言って確認は終了した。

 検証が済むと警察官は部屋に残されていたという鍵の束、マイナンバーカード、キャッシュカード、預金通帳などの〝貴重品〟とともに「テーブルの上に置いてありました」と現金数十万円を手渡してくれた。

 ただ、死因と死亡日時はまだわからない。これを解明するため警察官は「医師の判断で解剖になる」と説明しながら、一応私に「解剖承諾」にサインをするよう求めた。弟の遺体は事件性が認められないため翌日、行政解剖に付されることになった。ちなみに事件性の疑いがある司法解剖の場合は解剖の費用は公費負担、遺体の搬送や保管、修復に伴う費用の一部も公費で賄われるが、行政解剖の場合は検案・解剖、遺体の搬送、保管の費用すべてが遺族の負担になるという。

 その日は暗く沈んだ重苦しい気持ちで帰宅した。弟と同じ酒好きで独り暮らしをしている息子への電話と妻からのやさしい慰めの言葉以外、老夫婦間の必要以上の会話はなかった。

 翌朝、警察署から電話があった。解剖の結果が出たのだという。検証で部屋から近くのコンビニのレシートが見つかり、買ったものが冷蔵庫内に残っていた。死亡日はそのレシートの日付の翌日だと推定された。弟は突然死でもあったのだ。

 そして死因を聞いて驚いた。

 「アスベスト肺、肺気腫による呼吸不全」

 後で渡された死体検案書の解剖主要所見の欄には「両肺癒着及び肺気腫。胸膜側にプラークを形成する。左右心室拡張……」などと記されていた。

 自分の健康管理には無頓着で毎日のように酒を飲んでいたというので、てっきり肝臓障害の類かと思っていたがそうではなかった。確かに空調設備の会社に勤務し、設計とともに現場管理に従事していたことはあったものの、これまで咳き込んだことや息苦しそうにする姿などは見たことはなかった。まして標高1000~3000メートル級のスキー場まで行き滑走しても何の問題もなかったのだから肺が石綿で蝕まれていたとは予想だにしなかった。

 知人から聞いた話だが、アスベストによる疾患は潜伏期間が長く、ばく露してから数十年経って発症、死亡することがあるという。国の補償もあるという。この点については別の機会に取り上げることになるかも知れない。

 死亡日と死因が分かり、死体検案書が作成されたことで弟の死に関しては警察の手から離れ、葬儀への流れに移った。

 弟の遺体は警察署から紹介された葬儀屋が引き取り、翌日、手厚い化粧を施し、髪の毛や口・あごひげを整えてくれた。棺に入った弟の顔は元気な時とはほど遠く、顔色も良くないが眠っているように繕ってもらっていた。弟がベッドの脇で横たわっている姿を目にした時には、最初は、こんな哀れな弟を私の家族だけでなく他人にも見せたくはなかった。寂しいけれど極々近しい者だけで供養してあげよう、親しかった仲間には遠くから拝んでもらえればいい、との思いが強かった

 しかし、化粧をしてもらった弟の顔を見て考え直した。「寂しく息を引き取ったのだから、最後は大好きだった多くの人たちに囲まれて見送ってもらう方が弟も喜ぶだろう」と。自粛ムードのご時世であってもささやかながら敢えて通夜も葬儀も行う一般葬で弔うことにした。

 というのも、弟の様子を心配して電話をかけてきてくれた仲間に最悪の事態を伝えたところ「そばでお別れをしたいという仲間がいっぱいます。彼の人気は高く、慕っていた部下も沢山います」「お酒を御馳走してもらった人も多いと思います。弟さんを囲む会、もあるくらいですから」と聞かされたからだ。本来であれば通夜の席で弟の仲間の人達とお酒を交えて話をしたかった。ただ、夜の飲食自粛要請が出ていることもあり、お斎(とき)は控えさせてもらった。

 十分なソーシャルディスタンスを取って行った通夜・葬儀には弟が勤めていた会社関係の仲間を中心に、私が予想していた数の倍近い人たちが足を運んでくれた。涙を流しながら手を合わせてくれた女性もいた。「会社を去って3年にもなるのに、こんな時期にこんなに多くの人が……」と正直、驚くとともに、胸が詰まった。

 後日、弟のマンションを訪ねると、玄関ドアの前に白いユリの花束が置かれていた。

 悔しさ、無念さは尽きないが、生涯独身で通しても弟は寂しくはなかったんだと、今は勝手に自分自身に言い聞かせ元気づけている。

×    ×    ×

 孤独死。年間約3万人が一人寂しく生涯のピリオドを打っているという。高齢化社会の進展とともに人間関係が希薄になっていく中で社会問題化して久しい。国、自治体のほか郵便局や多くの団体が独り暮らしのお年寄りを対象に「みまもり」活動などの対策を取ってきてはいる。だが、昨春来の新型コロナウイルス禍でさらに深刻化しているという。政府は2月19日、内閣官房に孤独・孤立問題の対策室を設けたほどだ。

 周りを見回すと独り暮らししている知り合いは何人かいる。しかも大酒家。でも、まさか自分の身内から孤独死者を出すなんて思ってもみなかった。

 実をいうと、正直なところ私と弟は成人してからはそれほど連絡を密にとっていたわけではなかった。一緒にお酒を酌み交わしたこともそれほど多くはない。歳が離れていたせいもあるが、お互いの生活を尊重した形で「便りの無いのは良い便り」とばかり不要不急のコンタクトもあまりしてこなかった。

 しかし、新型コロナウイルス感染症の拡大で巣ごもりの生活が一年近く続く中で、緊急事態は〝異常事態〟であることの認識が私には不足していたのではないか。弟にはこれまでと同じ係わり方で過ごしてきて良かったのか、兄としてもっとしてあげられることがあったのではないか、と自責の念に駆られている。今となってはもう遅いが、この時期、離れていた家族に連絡をこまめにすることの大切さを痛感させられた。三密を避けるのはもちろんだが、不用不急でも〝密コール〟〝密メール〟を心掛けるべきだった、と自省する毎日だ。

 孤独死については様々な観点から取り上げた記事や書物も少なくない。私も取材したことがあるが、多くは遺族や周辺からの取材で社会に投げかけている。慚愧の念が大きいからか、周りの人達に思わぬ影響を及ぼす恐れがありそれをおもんばかってか、身内側からの記録はどちらかと言えば少なめだ。

 少し長くなったが、忸怩たる思いの中で自らのショッキングな体験を敢えて細かく記させてもらった。