随筆集

2021年5月26日

福島清さんの「岸井成格さんの父・寿郎さん」その3

【岸井成格さんの父・寿郎さん】

 元東京日日新聞政治部員だった岡田益吉さんが「岸井さんは語る」と題して、18ページにわたって書いています。当時の東京日日新聞の内情と政治の動きについて興味津々の内容です。以下、紹介します。

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<東京日日新聞入社事情>

 私は、戦後岸井さんを自宅に度々訪ね、主として時局に関して、氏の犀利な批判をきくこととしていたが、時には、氏の半生の生きた記録をきくこともあった。氏は自慢話など大きらいだったので、大部分こちらから質問したのに渋々答えてくれたのだが、晩年はいくらか好々爺になって、笑いながら、「こんなこともあったさ」という調子で話してくれた。

 ある時、「こんなつまらない話でも、君が勝手に書いておいてもいいよ」といったことがある。 馬場剛著「明治、大正、昭和の日本」という本にこんな一節があったので、氏に問いただしたことがあった。

 「桂(太郎)内間は2月11日(大正3年)に総辞職したが、大阪、神戸、広島に騒擾事件が起こり、17日から3日間、京都の事件は激烈を極めた)。その前夜三高の弁論大会がYMCAで開かれたが、今は名士である岸田幸雄氏や岸井寿郎氏が熱弁をふるい、しばしば臨席警官の中止をくい、はては演壇で学生と警官が組打ちをやる光景もあった。その翌日の夜、同じ会場で犬養木堂(毅、当時国民党々首、後政友会総裁。昭和7年首相として5.15事件で兇弾に倒る)の演説会があり、その群衆が円山公園へ行き、それから市内交番の焼打ちをやったのである」。

 これが大正2年の第一次憲政擁護運動であった。三高学生岸井氏は血の気の多い青年であったことがわかる。
「私はそれから、犬養木堂について各地を回わり、憲政擁護演説会でしゃべっていた。それで木堂の知過を得た。大学を出たとき木堂を訪ねて、〝私はケンカ早く、どこに就職しても永続きにないと思うが、どうしたらいいか〟と相談したところ、木堂は〝それなら司法官になればいい。判事でも、検事でも、身分は一生保障されているから首になる心配はないよ〟と答えたので、私は検事になった。ところがやはリケンカばかりしていて、自分ながら困っていた。これをきいて当時東京日日新聞にいた、三高時代からの盟友、麻生久君(岸井氏とともに東大新人会を創立し、のち社会大衆党書記長となる)から〝では新聞記者になれよ。ここなら、いくらケンカしても大文夫だ〟といわれて、東京日日新聞社に入社したわけだ」。

 狙介な犬養木堂と横紙破りの岸井氏は肌があったのだろうと思うが、これから氏の東日時代がはじまったわけである。官僚、軍閥と終生戦いぬいた犬養木堂と、東大新人会の思想的支柱であった吉野作造のリベラリズムは岸井氏の骨の髄まで透徹していたことがはっきりする。

 ここで忘れないうちに書き足しておくが、ある日氏はこう語った。「戦後、あるアメリカ人が自分を訪ねて来て、大正デモクラシーから大正マルクシズムに転換して行った時分の人で、今日残っているものは貴君だけだから、その転換期の話をききたいというので、話してやったことがあった」と。そのアメリカ人の名も、その話の内容も聞きもらしたが、氏の社会主義批判は後述しよう。

 岸井氏と犬養木堂の奇縁は、いつか氏が財界の大御所故官島清次郎氏(元日清紡績社長)に知遇を受けたという話にも関連していると思う。宮島翁は戦後、吉田茂、池田勇人、両内閣の陰然たる相談役であった。なぜなら、犬養と官島は切っても切れない関係であり、恐らく、岸井氏はかなり昔犬養の紹介で官島氏に会ったものと想像される。(つづく)

<山本(権兵衛)内閣成立のスクープ>

 岸井氏は大正13年(私が東日に入社)ごろは整理部におり、当時酒豪ぞろいの東日編集局にあって負けず劣らずの酔虎の一人で、それが氏の痼疾であった胃潰瘍の原因となった。

 その後政治部に入り文部省担当、東日紙上に「教育論」を連載したが、大正12年9月1日の関東大震災の瞬間、氏は山本権兵衛海軍大将が三度目に大命を拝して組閣中の築地海軍水交社の中庭にいた。水交社二階で山本伯と平沼騏一郎(当時検事総長)と司法大臣就任の交渉が行われていた。この司法大臣の椅子がきまれば、第二次山本内閣は成立するという瀬戸際に、大地震が襲来したのであった。他社の記者はみんなバラバラに逃げてしまったが、岸井記者はブルブル震動していた一本の立木にしがみついていた。そして、山本、平沼の交渉成立を確認するまでふみとどまった。その上、自動車を返さないで止めておいたので、すぐさまこれに飛び乗って社に戻り、山本内閣組閣完了を告げた。

 このスクープは地球を一回りして、また東京に返電され、他社の知るところとなった。こういう際の氏のガン張りぶりは日に見えるようである。

<外紙を排して国産品主義をとる>

 正力氏と岸井氏とのつながりは、もう一つあった。昭和9年1月岸井氏は本山社長の密命を帯びて、米国とカナグに新聞用紙の調査に行った。このことを探知した正力氏は、野沢商会の店主を岸井氏と同船させ、ロスアンゼルスで岸井氏に協力を依頼させるという強引さであった。

 氏はカナダの各製紙会社を歴訪し調査をまとめてロスアンゼルスに帰ってくると、その野沢商会店主なるものは、その間2ヵ月、ロスアンゼルスのホテルで岸井氏の帰りを忍耐強く待っていたという。どこまでも、くいついて行けという正力氏の執拗さに氏も感心したという。氏の調査では、外紙は連(4頁新聞1000部)3円ぐらいで国産新聞用紙よりも連50銭安かった。

 しかし、岸井氏が本山社長に提出した報告書の結論は「外紙はなるほど国産品より安く、外紙を使用した方が有利であるが、一旦緩急あった場合、外紙依存は危険であるばかりでなく、国産新聞用紙も漸く改善されようとしているし、将来新聞用紙の国内自給を確立することが、重大意義を有する」といって外紙購入方針を否定した。もともと熱烈な愛国主義者であった本山老社長も岸井氏の明決なる正論を欣受して、由来、毎日新聞は外紙を一度も使用しなかったし、王子製紙はこの毎日の膨大な新聞用紙需要によって、その後着々発展の途をとり、わが国の製紙界の進歩に寄与するところ人であった。王子製紙その他、ひそかに岸井氏の炯眼と決断を徳とした。

 一方、ロスアンゼルスでは野沢商会店主の熱意にほだされて、岸井氏は快よくある有力なカナダ製紙会社社長に紹介状を書いてやったので、彼は、正力氏の念願に応えて安い外紙を手に入れることができた。当時読売新聞は販売部数が急激にふえる上り坂にあって、用紙購入に困惑していたので、一息ついたわけである。新聞社では上り坂の時の方が財政上苦しいのであって、この外紙問題でも正力氏は岸井氏の恩恵を受けたわけである。戦後、正力氏も岸井氏も追放の憂き目をみて、毎日、岸井氏は淡々として日本倶楽部で正力氏と碁を囲んでいたが、「正力の碁は、いつも相手の石を大きくとりかこむ一方だが、一つ破れ目が出ると総崩れになる面白い碁だった」と笑っていた。(つづく)

<国際連盟脱退論>

 岸井氏が政治部長に就任したのは、満州事変勃発直後で、いまの若い人は理解し難いが、その頃の軍部はいまいわれているのと大ちがいで、政治的に極めて弱体であった。満州事変などは、軍として精一杯の窮余行動で、せっばつまった自衛策にとゞまっていたし、国内世論はその実態を認識していなかった。帝国主義とか、侵略主義とかいう景気のいいものではなく、国内も極度に経済的不況であり、日本としてどこかに脱出路を見出すほかなく、一方満州における日本の条約上の正当な権利は、張学良排日政権のため侵害され、全く追い詰められた状勢にあった。

 ワシントン会議で成立した九カ国条約には、中国が国際条約を守るべきだという条項はなく、片手落ちのものだった。その上国内世論は不統一で、この際日本の新聞の言論は、浅薄な大正デモクラシーと大正マルクス主義に支配され、日本の現実について全く認識不足であった。このとき、岸井氏が大毎、東日に連載した「満州のわが移民村」と、「国際連盟脱退すべし」(何れも昭和8年)の二論文は最も特異なもので、一般言論界が満州事変に対して、暗にこれを非難するだけで、その実態を分析せず、国論を指導する気追と英知を欠いていたのに対し、積極的かつ建設的な主張であった。また、岸井氏独得の思想と勇気のある言説であった。昭和8年10月、関東軍以外の何人も行かなかった、北満の永豊鎮(のちに弥栄村)第一次開拓移民地に、岸井氏ははじめて乗込んで、現地を視察したのである。昭和9年1月に、氏は「満州移民と国策」という一篇を追加して、単行本として出版した。その内容について詳細に書く余裕はないが、この本は、氏のものの考え方を如実にあらわしているだけでなく、今日でもなお含味すべき思想を示している。

 一言にしていえば、大正デモクラシーの基となっている自由主義には幾多の複雑な要素があったので、リベラリズムとして正当なる評価をされていなかったことがつくづく感ぜられる。氏のリベラリズムには濃厚な現実主義が基底となっていた。自由とは、外物にとらわれず、事実をありのまゝに見てこれを自由にとらえることだということが、今日の評論家、政治家の多くはわかっていない。ややともすると、リベラリズムを理想主義的にのみ空想して、現実の分析を忘れ、軽挙妄動する傾向が今日でも多い。

 これは自由主義の本質ではないと思う。岸井氏の満州移民に対する批判には、軍部のやり方をはじめ、満州という環境に適応しない方策を指摘しながら、満州移民の絶対必要性を主張し、かつ、その可能性をこまごまと論じている。こういう実際的な評論家は、今日でも絶無ではないかと思う。

 国際連盟脱退論でも、岸井氏のは連盟が満州国承認に反対するのがけしからんというような書生論ではなく、国際連盟そのものが不合理なやり方をしていることを、具体的に沢山の実例をあげて指摘している。こんな連盟にいつまでもかかずらっていることは、日本の国際的地位をかえって危うくするから、早く脱退した方がいいという実際的な考え方であった。

 岸井政治部長は、東日紙上に堂々署名して連盟脱退論を連載していたが、当時の外務大臣幣原喜重郎氏を3回も訪問して会談している。官僚的秘密主義の幣原はついに岸井氏に胸襟を開かなかったらしい。当時、陸軍省担当であった私に「陸軍で話のわかるャツを紹介しろというので、私は荒木陸相の懐刀といわれた小畑敏四郎少将(当時参謀本部第三部長)に岸井氏を紹介した。氏は小畑と会談後「軍人としては、よく話がわかっている」と一言洩らしていた。話は連盟脱退の件であったらしいが、幣原がわからないので、やむを得ず軍部と話をしてみたのだと思う。

 戦後、幣原の手記が公表されて、幣原の連盟論が全く岸井氏の説と同じだったのをみて笑っていた。自由主義というものが、あくまで現実主義でなければならぬという岸井哲学は今日こそ、もっと徹底して理解されるべきだと痛感する。(つづく)

<城戸事件の真相❶>

 昭和41年10月28日、元毎日新聞会長城戸元亮氏は85蔵の高齢で道山に還った。私はすぐ岸井氏に電話で訃報を伝えた。電話の声で、氏が万感交々至るといったような沈痛な表情であったことが看取された。

 前述したこともあるが、東日主幹城戸氏は岸井氏の最も敬慕する新聞人であり、城戸氏からいっても岸井氏は最も信頼する部下であった。当時城戸氏幕下として「東に岸井あり、西(大阪本社)に新屋(茂樹)あり」といわれたくらい城戸、岸井というラインは緊密なものがあった。それが昭和8年城戸氏が衆望を負って大毎会長となるに及んで、世にいう「城戸事件」という新聞界稀にみるお家騒動が起り、心ならずも岸井氏は城戸氏と訣別し、それだけでなく城戸派から岸井氏を目して城戸氏を裏切ったものと今日でも非難している悲劇となってしまった。

 右の電話で、岸井氏は「城戸さんの葬儀はいつか、是非行くよ」と悲痛な声でいったのを今でも覚えている。一体城戸事件の真相はどうたったのが、岸井氏は果して城戸氏を裏切ったのか、私もそれまで、一度も氏にたずねたことはなかった。

 城戸氏の葬儀の日、岸井氏は毎日新間に入社したばかりの三男成格君を同伴して、告別式に参列した。かつての城戸派の人々とも氏は久闊を叙していた。その翌日、岸井氏から電話がかかって「一寸来てくれ」というので岸井邸に行った。氏は一寸改まった口調で次のような「城戸事件の真相」を語った。私は、そのときの言葉をそのままに記録しておく。

 城戸事件についてはいままでどんな懇意な友人にも、まして家族などにも一言も話したことはない。いろいろな人に迷惑をかけてはいけないし、ことに城戸さんにどんな経路で耳に入ることがあるといけないと思って今日まで固く沈黙を守ってきた。いま城戸さんも亡くなられ、君は城戸さんともよかったので、真相を話しておく。私は城戸さんを尊敬し、ずいぶん世話にもなり、新聞人、ことに編集陣の人として、えらい人と今でも信じている。君も知っているように、大正天皇がなくなって年号が大正から昭和に変ったとき、毎日新聞が、新しい年号は「光文」であると誤報した「光文事件」というのがあった。

 皇室中心主義の本山彦一社長は激怒して東日主幹であった城戸さんを首切り、外遊させてしまった。私は営業局理事吉武鶴次郎氏を訪ね、〝社長はあまりに横暴ではないか、城戸氏というあれだけの人物を首切るとは何事か。私は体を張っても、この乱暴なやり方に反対して、あばれてみせる〟と厳談した(本山、城戸、吉武三人は何れも熊本出身)。

 すると吉武氏は〝いま君にあばれられては困る。城戸氏は必らず私が本山社長を口説いて社に復帰するようにするから、君はじつとしていてくれ〟というので、私は城戸氏復帰運動を一切中止することにした。城戸氏はすでに外遊していた。ところが私にも外遊の社命が下った。そして古武氏が私を招いて〝城戸氏復帰のことは本山社長の内諾を得た。だから君はすぐ出発していまロンドンにいる城戸氏に会って、その旨を報告し、決して軽挙妄動しないように言伝えてくれ〟といった。私もこれで一安心して横浜を立った。

 おどろいたことに、本山社長が横浜埠頭に重役でもない私をわざわざ見送ってくれた。これは全く異例のことなので、城戸氏復活のことはウソではないと思った。そしてロンドンで城戸氏に会い、あなたの社復帰は決定したと告げると、城戸氏も喜んで、〝それでは君はすぐ日本に帰って、私の復帰後の準備工作をしてくれ〟といった。私は〝イヤ、私もはじめての洋行だし、2年ぐらいヨーロッパで遊んでいたい〟と断った。城戸氏は私より先に帰国すると、果して大阪毎日主幹として立派に復活していた。

 私はソ連を回ってゆっくり帰国した。ソ連では監獄まで視察したが、収容されている囚人の大部分が経済事犯なのを知って、私は統制経済ないし社会主義は汚職と、官僚腐敗を伴うものでダメであると思った。これが盟友麻生久氏と意見の一致しなかったところで、私の自由主義は、右のファッショも、左の共産主義も不自然な統制主義であると否定する。私も、他人事でなく城戸氏には画したつもりだった。(つづく)

(福島 清)

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