随筆集

2021年5月28日

福島清さんの「岸井成格さんの父・寿郎さん」その4

【岸井成格さんの父・寿郎さん】

 元東京日日新聞政治部員だった岡田益吉さんが「岸井さんは語る」と題して、18ページにわたって書いています。当時の東京日日新聞の内情と政治の動きについて興味津々の内容です。以下、紹介します。

<城戸事件の真相❷>

 また編集の城戸、営業の吉武という鉄壁の陣は、朝日新聞その他の競争紙に、つけこむスキもない完璧のものであった。ところが、城戸氏が本山社長亡きあと(昭和7年12月)会長となった後、ある日吉武氏に呼ばれこういわれた。〝城戸氏に対して君も知っているように、今日まで誠心誠意協力援助してきたのに、いまになって私を首切るというのだ。全く『狡兎死して走狗烹らる』のたとえの通りで、私としては売られたケンカは買わぎるを得ない。いま社内は城戸派と反城戸派と対立して混乱しているが、君はどちらにもつかず、じっとしていくれ〟といわれ、ほんとうにびっくりした。私は実際、こういう血と血で争う醜い状態にがっかりして、もう新聞はやめようと心の底深く決意した。

 私が反城戸派と目されているのも心外だが、城戸氏が大阪に行ってから私を相談相手にしなくなったのも事実だ。私は、いずれ首切られるものとマナイタの鯉のごとくじっとしていようと決意していた。ところが向う(城戸派)の方が倒れてしまったので、あっけにとられてしまった。しかし、今にして考えると毎日新間が城戸氏を失ったことは、返す返すも残念でたまらない。

 当時私は胃潰瘍で心身衰弱しており、家内も重病で瀕死の床にあった。それでも何とかもう一度、城戸、吉武両氏が提携して毎日新聞を完璧の域に置こうと、最後の勇気をふるい起こして、再三城戸氏に面会を求めたが、城戸氏は東京にきても私には会おうとは絶対にしない。仕方なく大阪までも行ったが、新屋茂樹が代理で会うというので、新屋ではどうにもならない。

 私の腹案は、吉武氏は城戸氏より10歳も老年である(岸井氏は城戸氏より10歳若い)。そこで、今すぐではないが、私が吉武氏を口説いて、円満にやめさせるから、ケンカはやめてもらいたいと城戸氏にいうつもりだった。そのころ、城戸会長のほか、欠員になっていた社長に吉武氏という噂があったことも事実だ。私があのころ体力が充実していたら、もっと勇気を出せたであろうし、出すべきであった。

 城戸事件こそ私にとって終世の恨事だった。城戸氏を批判するつもりはないが、いま考えると、10年、時代がちがうということはバカにならない。城戸氏でも吉武氏でも何といっても封建時代の空気に育っていて、いいにしても悪いにしても私のような民主主義の教育を受けていないことが根本原因だと思う。時代の思想というものは恐ろしい。重役ともなると、何でも自分の思う通りになると信ずる傾向は封建主義の名残りではないか」。

 城戸事件当時、私も岸井政治部長の下にあったし、いろいろ見聞することもあったが、私は派閥の争いなどには興味もなく、岸井氏の述懐についてコメントを加える必要もないが、岸井氏にとって一生の悲劇であったことだけは確かであったと信ずる。(つづく)

<正力松太郎傷害事件>

 城戸事件の直後、岸井氏は政治部長から吉武営業局長の下に営業次長となり、東北の大冷害問題について、東北6県の救済運動のため奔走した。これは東日の東北に対する大キャンペーンであった。ところへ突如として昭和10年10月、読売新聞社長正力松太郎氏が暴力団員に傷害を受けるという事件が起こった。

 当日、東日販売部長で岸井氏の輩下であった丸中一保が東日に出入りしていた熱田佐に、正力刺傷を示唆し、熱田の乾分・長崎勝助が正力社長を襲った事件である。岸井氏は丸中を再三取調べ、そんなことはなかったことを確めていたので、熱田が岸井氏に面談したときも「丸中も相当教養ある者だから、さようなバカ気た依頼をするはずもないし、必要もない。東日とすれば読売の進出など眼中にない」といい切っている。

 しかし事件は営業局長吉武氏にも波及してきたので、岸井氏は吉武氏に、「この事件は私が全部かぶって責任を負う」といったが、実はその前日に岸井氏は検事局の取調べのさい、熱田に答えたと同じく「そんなバカなことはない」といっているので、事件の泥をかぶることもできなかった。結局、丸中は伊豆で自殺し、吉武氏の退社となって、岸井氏は吉武氏の慰留で社に残ってしまった。昭和12年1月、岸井氏は当時の東日編集総務久富達夫氏(岸井氏の後任として政治部長になった)を東京会館に招き、東日退社の決意を明らかにした。

 「僕の健康は難症だ。それに僕の信頼していた先輩たちは次々に社を去っている。一方僕は新聞というものに昔日のような情熱を失ってしまった。これ以上在社しても僕にとって人生の浪費だ」と悲痛な告白をしている。僕の信頼していた先輩たちとは、恐らく城戸氏と吉武氏だったのではないか。(つづく)

<大平洋石油会社創立す>

 それからの岸井氏は実業界の人となったが、私は岸井氏はあくまで新聞人だったと思うし、実業界の氏のことはよく知らない。ただ一つ、メキシコの油田を開発しようとしたことだけは記録しておきたい。

 昭和11年ごろ、斉藤実(海軍大将、首相内大臣)の密令を帯びて池田佐忠という人が、メキシコの石油開発権を獲得して帰朝したが、船中で2.26事件のため斉藤内府が殺されたことを知って絶望した。メキシコ在留日本人会長都留氏とともに、東京で奔走中、たまたま岸井氏の事務所を訪れた。岸井氏は石油資源をもたない日本の窮状をかねて憂慮していたので、王子製紙社長藤原銀次郎氏を口説いて、その斡旋方を依頼した。

 「藤原さん、あなたはもう一会社の社長におさまっている場合ではない。国家のため、財界全体のために働くべきだ」と熱心に勧告したので、藤原氏も心を動かし、ついに王子製紙をやめた後、資本金500万円の大平洋石油会社を創立して社長となった。その副産物として、藤原氏が長年社長に居座っていたため人事が停滞していた王子製紙も、高島菊次郎氏が社長となり、足立正氏が専務になるというように、人事が刷新された。このさい、岸井氏は新会社の重役にもならず、一株の功労株も受けとらなかった。これは財界の美談として伝わっている。(つづく)

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(福島 清)

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