随筆集

2021年6月2日

福島清さんの「岸井成格さんの父・寿郎さん」その5

【岸井成格さんの父・寿郎さん】

 元東京日日新聞政治部員だった岡田益吉さんが「岸井さんは語る」と題して、18ページにわたって書いています。当時の東京日日新聞の内情と政治の動きについて以下、紹介します。

<麻生久氏と自由党>

 岸井さんは、戦時中郷里香川県から衆議院議員に当選した。政治には興味はあったが、政治的野心はなかったと思う。社会運動の中心人物であった麻生久氏とは、三高時代から刎頚の友であった。しかし前述したように、ソ連の実情を視察して帰国した岸井氏は、盟友麻生に「社会主義は官僚制度の幣害がひどくなるのでダメだ」と批判していた。

 その後、近衛第一次内閣の末期、38名の社会大衆党を擁した麻生氏は、亀井貫一郎や橋本欣五郎陸軍大佐(のちに赤誠会長)らと組んで、「近衛公によって日本に国家社会主義を実現する」という計画を抱いた。そして連日のように岸井氏に協力を熱心に頼んだ。

 岸井氏は「近衛などはアテにならぬから止せ」とはげしく反対したが、自分の自動車を一台麻生に提供して、「君は自分の好きなようにやれ」といっていた。がついに麻生氏は「もうすでに新内閣の大蔵大臣に岸井寿郎をするよう、近衛と約束してある。どうしても自分を助けて欲しい」と膝詰談判にまで及んだ。

 岸井氏もさすがに断りかねたのか「君とは切っても切れぬ友情で今日まできた。自分は反対だが、ヨシッ、それでは君と心中しよう」と快話して、鉱山その他岸井氏の財産を処分して、政治資金までつくった。その翌朝、かんじんの麻生久氏は心臓病で急死してしまい、岸井氏は茫然自失した。 これが氏にとって、城戸事件とともに一生の痛恨事であった。

 岸井氏は、こんな大きな二つの挫折感を乗切って80歳の天寿まで生きつづけたのであって、その剛毅と純情さは他人のまねができないことであった。岸井氏の用賀の家の前に、東条英機大将の家があった。東条がある日、自分で、改良式の七輪(しちりん)と金具のない木の鍬を岸井邸に持ってきた。岸井氏は仕方なく無言で受けとったが、奥さんがあとで東条邸に礼に行ったといって、大変怒ったそうだ。

 衆議院書記官長大木操氏の「大木日記」に、岸井代議士の名が幾度か出て来るが、その内容は少しも書かれていない。恐らく、当時軍部を憚かるような発言だったので、故意に省略されたのではないかと推測される。終戦前、用賀の自邸を空襲で焼失されたので、岸井氏は軽井沢へ閉じこもった。

 ここで坂本直道氏(元満鉄パリー事務所長)の紹介で鳩山一郎氏と懇意になり、終戦とともに、馳せ参じた芦田均、林嚢二などと、新政党樹立の計画に参画したことはあまり知られてない。その後坂本直道氏と上京して、石橋正二郎邸の一隅で、新党計画をつづけたが、いよいよ旗上げの前夜、交詢社で最後の準備会をしたとき「党名を何とするか」が議題に上った際、岸井氏は真っさきに発言して「自由党とすべきだ」といった。「日本自由党」というものもあったが、「日本は不要だ」と岸井氏は強く主張した。「世界の自由党」を意図したのではないかと思う。何れにしても、現在の自由党の命名者は岸井氏だったのである。

 晩年「雀百まで踊る」と称して、日曜夕刊「東京ポスト」を創刊して、無料配布という破天荒の新しい新聞を企画したのは、いかにも新聞人、岸井氏らしい貴重な置き土産であろう。(つづく)

 岸井寿郎さんの最初の奥さんは病気で死去。2人の男児が成人した後、再婚した夫人も昭和17年に出産のため入院した時、亡くなりました。昭和18年4月に再々婚された慶子夫人との間に、成格(三男)さんと巍次(四男)が生れました。36ページにものぼる慶子夫人の「夫を偲んで」は、激動の時代に寿郎さんがどのように生き抜いたかを詳細に書いています。抜粋して紹介します。

「夫を偲んで」①

 夫のことを書こうと思いましても、こみあげるものに遮られて遅々として進みません。でも与えられた命を謙虚に享受し毎日を大切に生き抜いた夫の一面を思い出しますままに綴ってみることに致しました。

 結婚当時、夫がこんなことを申したことがありました。

 「叩かれて潰れてしまう様ではいかん。叩かれても蹴られてもゴムまりのように跳ね返ってついて来い」。

 当時は戦争も末期の大変な時代でしたから、夫の帰宅はいつも遅くて、午前2時3時ということも珍らしくはありませんでした。夜中に二重まわしの衿元を少しはだけて、ゆっ<りと車から降り立つ姿からは、思わず胸の引き締まるような気魄が感じられました。私は夫の任務の重要さも、言葉一つに命の懸っていた当時の立場も、十分に心得ていたつもりでしたので、必死について行こうと懸命でした。

 ところが毎日よく叱られるのです。といいますよりは、何もしないうちに先に叱られてしまうといった方が当たっているのかも知れません。その上、力のこもった大きな声ですので、ひどく叱られているような気持になってしまいます。

 「もんぺなどはくな、世の中が汚のうなってかなわん。格好など好きにしとればよろしい。それよりも女はどんな時も女でなければいかんよ。夫と子供の大事さ、可愛いさを見失ってしもうては何もかもがわやじや(駄目になってしまう)」。

 前日の昼下りに庭で夫と共につい耳にしてしまった塀越しの立話を、その時ふっと思い出しました。息子を叱叱激励して特攻隊を志願させたと二人の母親が話し合っていたことでした。「女は愚かなもんよな― 。姿を構えさせておだてればいつしか心までも鬼になってしまいよる」。その時夫は憮然とした面持で私を見詰めました。しかし戦時下に夫の意の儘にしたがうことは大変難かしいことでもありました。当時の常識と既成観念も無視してかからなければならない場合も出て参ります。

 昭和18年の冬近い頃であったと思いますが、玉川用賀の拙宅の近くに住む東条英機氏(当時の首相兼陸相)が訪ねて参りました。その前にも二、三度来られましたが、夫は何時も中に招じ入れようとはせずに、表玄関のドアーの外に立たせたまま話しておりました。その日は秘書に粘上のコンロと木製の鍬とを持たせて、「私の手製ですが大変具合が良いので使ってみて下さい」ということでした。

 「それは有難う」

 素気ない返事で、相変らず内と外とで暫らく話を交わし、やがて氏は帰って行かれました。両肩を落とし、背を丸くして俯き勝ちに歩いて行く氏の後姿は大変佗びしいものでしたが、何か深く考え込んでいる様子がひどく心に掛りました。

 私は東条氏に会ったのはこの時が最後でした。丁度その頃近所の家に親戚の者だという老人がしばしば訪ねて参り、その都度私宅へも立寄りました。時局に関する話をぜひ伺わせて頂きたいということでした。(つづく)

「夫を偲んで」②

 「あの老人は東条の親戚だそうじゃ。今日軍の主脳部の人間が注意してくれた」。
東条氏の来られた数日前に夫が申していたばかりでした。兎に角うっかり心の許せない夫の身辺でした。

 2、3日後に私は田舎から送られて来た「あんぽ柿」をたずさえて東条家を訪ねました。鍬とコンロのお礼のつもりでした。が、ただそれだけであったといっては、心の隅に少しうしろめたさが残ります。何ともいいようのない不安がつい東条家に足を運ばせてしまったのです。夫には内証で出かけましたのもそのためでした。

 軍行動を批判した場合には、統師権の干犯という言葉があって軍の一部の者の独断専行ではありましたが、一国の宰相であろうと、国会がそれを取り上げようとした場合であろうと、軍部は天皇の御名において統師権の干犯は許さぬと強く反発したようですし、またことと次第によっては命にかかわることにもなりかねなかったのです。

 東条家から帰ったとたんに激しい夫の怒りに震え上がりました。

 「旦那様はご存知かと思いましたので」と女中がオロオロしておりました。迂闊なことをしてしまったという悔恨と、夫の立場を傷つけてしまったのではないだろうかという不安に一層かり立てられる結果になってしまいました。

 夫には押しても突いてもどうにもならないと感じさせる強さがありました。黙ってじっと座っている姿から殊に強くそれを感じました。強さというよりは、偉さというものなのかも知れませんが、実はその言葉でさえ満足の出来ない、もっと大きな何かが心に迫まって来るのです。信念などという生やさしいものではなくて、まるで宇宙の法則のような安定感がありました。あるいはそれは夫の本質というものであったのかも知れません。人間本来の姿がそこにあるといった感じなのです。衒いも、翳りもなくて、そのために人間の弱さによって怯むということがないせいでしょうか。微動だにしないような強靭さがあって、それが夫の風格となっていたように思われました。(つづく)

「夫を偲んで」③

 話は前後致しますが、昭和の初期に高等女学校に在学していた私は、当時の逼迫していた日、英、米の国交問題とか、除々に戦争に追い込まれて行く八方塞がりの日本の国情とか、あるいは不況を背景にしてのサンガー夫人の産児制限のこととか、兎に角、暗い講演ばかりをよ<聞かされて、多感な少女時代を過ごしましたので、「聖戦」ということも仕方がないのだと是認する気持が強かったのです。

 そうしたある日、遇然私は岸井寿郎という人にめぐり逢いました。永らく病床にあった最初の妻をつとに亡くし、その後子供達のためにやもめ暮しを余儀なくされておりましたが、彼等も成人し、再婚をしたばかりという時でした。昭和16年の5月頃であったと思います。

 私はその時、幼時にきめられていた縁談を断り、そのために起きた様々な経緯からのがれて家を出、当時牛込に住んでいた叔父の軍令部出仕の海軍中佐の家に身を寄せて、ある学校に在職していまました。私にとっては大変有意義な毎日でしたし、また華々しい戦果にまだまだ国全体が酔いしれていた時でもありました。私は彼の会社の応接間で彼から思いがけないことを聞かされました。

 「聖戦などというのは誤魔化しですよ。無謀な一部の軍人達の思い上った出世慾と陸海軍の勢力争いとに、この戦争は端を発しているのです」

 『叔父に聞かせたい言葉なのだろうか、いや違う』と、私は自問自答しながら彼の鋭い眼差しを真直ぐに見返しました。口に出すのを憚からねばならない言葉でした。私の動揺を見て、彼は優しく言葉を続けました。

 「ものを教えている貴女がこんなことを口にしてはえらいことになる。時期が来るまで心に収めておかれた方がよいでしょう」。

 彼は客を待たせてあるからと、さっさと部屋を出て行ってしまいました。会社には連日大勢の人々が様々な用件や相談を持って詰めかけておりました。鉱山会社と土木会社を経営していたのですが、私は最初、彼は何をしている人なのだろうかと不思議に思ったくらいでした。

 「こんな世の中になると、良い人間程困っている。面倒見てやらんならん人がたくさんいるのでね」といっておりました。今考えてみますと、各界の上層部にひろがる深く広い交際範囲と、彼自身の力とが相俟って多くの人々を援助する手だてとなっていたように思われます。大変因縁めく話になりますが、会ったばかりの私に戦争の真実の姿を知らせておきたかったことについて、結婚後次のように話しておりました。

 「初めて会った時、これは結婚することになる人だと思った。再婚したばかりの俺が何故そう感じたのか未だに解らない」。

 だから真実を知らせたかったのだということなのですが、真偽の程は解りません。が、嘘だとも思えないのです。どういう力がそうさせますものか……。はっきり解かることではありませんが、心からきれいに消し去ことも出来ません。(つづく)

「夫を偲んで」④

 近衛の新体制構想によって生まれた大政翼賛会は政心一新、時局収拾のためのものでした。しかし、結局は麻生久氏が落胆の余り病を重くしてしまわれた程のものに作り変えられてしまい、好戦的な革新右翼の温床となり、あるいは一部の内務官僚に利用されるだけのものという結果になってしまっていたのです。そのためにかえって彼は渦中に飛び込む決心をしたのだと思います。彼が当選して間もなく、私は招かれて玉川の邸を訪ね、はじめて彼の母に会いました。彼が最も敬愛し、畏れてもいた人でした。私達は翌18年4月に結婚致しました.

 その頃麻生久夫人が度々玉川へ訪ねて来られ、無産運動に生涯をかけていた若き日の氏と夫との姿を、巧みな話し方で彷彿とさせて下さいました。

 当時令息の良方氏はまだ18、9の弱々しい文学青年でいらしたらしく、母上から伺った話は、夫人との恋愛問題とその結婚へのいきさつ等で、その後話題の美しい夫人を伴って来られたこともありました。今の良方氏を拝見し、偉大なお父上の政治家としての素質を受け継がれたばかりではなく、文、画才と様々な特質に恵まれていられることに驚かされます。

 かつて夫は、革命10年祭のロシアを訪ね、その破廉恥犯の数の多さと、日本の国土の狭さ資源の乏しさに、適応し難い共産国家の現状を目のあたりにみて、その後は自由主義者としての道を歩んでおりましたが、主義を異にしてからむしろ麻生氏との人間的な繋がりは深さを増していったようでした。

 河野密氏、片山哲氏、河上丈太郎氏、浅沼稲次郎氏、水谷長三郎氏、西尾末広氏、三輪寿荘氏、棚橋小虎氏(夫の姪の主人)、野坂参三氏等、革新政党の多数の方々とも永い間深い交わりを持っておりました。浅沼氏が亡くなります少し前、会の帰りに大井の宅まで夫を送って来て下さったことがありました。夫を最長老としていつも厚く遇し、革新政党への夫の苦言もよろこんで受け入れていられたと聞いておりました。

 昭和19年の夏頃であったと思いますが、政治犯として10年余り獄中生活を送っていた佐野学氏が釈放になり、玉川の家に来られました。軍の圧制で総ての実行を封じられた氏は、「差し当たってどうしたら良いものか」と大変憔悴しておられましたが、出るために節を曲げざるを得なかったことに対して夫は、「命を落としては何もならんよ」と申し、
「体調を整えながら、このざまをしっかりと見届けておくことが今は一番必要だ、自由に動ける時がもうすぐ来るよ、君」
と、氏の肩を抱くようにして励ましておりました。しかし、氏は良い時代にもう一度活躍の機を持つことなく、亡くなり、あの時の顔を思い出しますたびにお気の毒でなりません。(つづく)

(福島 清)

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