随筆集

2021年6月8日

福島清さんの「岸井成格さんの父・寿郎さん」その6

【岸井成格さんの父・寿郎さん】

 岸井寿郎さんの最初の奥さんは病気で死去。2人の男児が成人した後、再婚した夫人も昭和17年に出産のため入院した時、亡くなりました。昭和18年4月に再々婚された慶子夫人との間に、成格(三男)さんと巍次(四男)が生れました。36ページにものぼる慶子夫人の「夫を偲んで」は、激動の時代に寿郎さんがどのように生き抜いたかを詳細に書いています。抜粋して紹介します。

「夫を偲んで」⑤

 昭和16年12月8日、真珠湾奇襲攻撃の戦果に酔いしれたのも束の間、昭和17年4月にはB25の陸爆機により東京および名古屋は初空襲を受け、更にその年の6月5、6日にはミッドウエー島沖の日米の海戦で日本軍は壊滅的な打撃を受けました。その後は坂を転げ落ちるような敗戦の一途を辿っていたのですが、大本営は相変らず目覚しい戦果の発表をし続けておりました。事実とは全く相違していましたが、そのことはいち早く夫の耳には入っていた様子で、
 「大本営の発表をメモしておけ、事実との相違を調べるから」
といっておりました。夫の和平工作は同志の方々と共に進められていたようでした。

 昭和19年1月には次男が学徒出陣で沖縄に向かい、6月には夫の身を案じ続けていた姑を亡くし、7月には長男を司政官としてビルマに送り、9月には三男の成格が誕生しました。孫の出産を楽しみにしていた姑を失ったことは夫と共に大きな痛手でございました。戦時中で思うように孝養の尽せなかったことも心残りでした。

 夫は香川県の古い藍問屋に生まれましたが、父を早く亡しく、母の手一つで育てられました。姑の言葉のうちで特に私の心に残ったものを拾ってみることに致しました。間に合わぬ使用人をよく労わり他の者に、「足らぬ者(能力のないもの)には足してやるより仕方がないではありませんか」といい、またいつも口先ばかりの人には、「心で思うて頂くことも有難いことですが、本当にして頂く方がもっと有難いことです」と一寸苦言も呈しました。

 子供の教育については一見識を持っておりました。「不道徳の芽だけをつみ取ってあげれば良いのですよ。良いことは誉めておあげなさい、心の栄養ですからね。善悪のけじめは一番難しいことですね。言い聞かすより前にまず親が自分の心にしっかりと問うて見て、あやふやなうちは決して口にしてはなりません。間違うたことを押しつけることになりますからね。これは一難かしい……」 自分に言い聞かすように話しておりました。(つづく)

「夫を偲んで」⑥

 熱海といえば、古い友人の川島正二郎氏とは同じホテルでしたのでしばしば落ち合い、時には成格、巍次も交えて時局談にひとときを過ごすこともありました。昭和19年末から20年にかけて、夫は母を亡くした悲しみに浸る間もなく、国の将来を案じて東奔西走し、夜帰宅してから原書で英米の空軍の実態などを調べ、それを翻訳して私に清書をさせていました。国会演説で軍の拙劣さを追究するための資料の一つでした。

 その日も使用人達が寝静まってから、広い邸の離れの一室で、その上尚且つひそひそとあたりを憚って話し合いながら明け方まで続けられました。

 「勝てるのでしょうか」
 「敗けるさ、最初から勝味などはない」
 「敗けるって……。それは大変なことではありませんか」
 「大変なことだよ」
 「敵が上陸して来るようなことになったら、私達は皆殺しにされてしまうのでしょうね」
 「手むかうから殺される。アメリカ人は降伏した相手を皆殺しにする程野蛮じゃない。今より良くなるよ」
 「降伏……」

 私は夫の顔に目をとめました。

 たった今重大なことを目にした人とは思えない静かな表情でした。しじまの音のみの静寂の中で夫のページをくる、かすかな音だけが息ずいていました。

 「だからこれ以上無駄に国民の命を失わせてはならんのだ」

 夫がぽつりと重く口を切りました。

 続けて何かを話していなければやりきれない気持なのに、もう話すことはなくなってしまいました。犬の遠吠えでも良いから何か大きな声で、今のこの静寂を自由に勝手に思いきり破ってほしいと思いました。

 日頃の夫の言動から、勝つと思っていたわけではありませんでした。軍の独走の中で、和平に導く時期と方法が問題だと漏らしていたことがありました。停戦協定の時期はもう失してしまったようです。既に昭和19年7月にはサイパソ島玉砕により、マリアナ基地を失ってしまった責を問われて東条内閣は総辞職をし、小磯内閣の時代に移っておりました。

 降伏をしても今よりは良くなるといった夫の言葉は、軍の横暴によって自滅の道を辿っていた日本が兎に角新しく生まれ変わるということのようでした。目かしくをはずして国民の一人一人がそれをはっきりと認識しなければならない最後の時期に来ていたのです。

 「だから……」と夫は言葉をきり、「これ以上無駄に国民の生命を失わせてはならんのだよ」とまた同じ言葉を繰り返しました。(つづく)

「夫を偲んで」⑦

 戦時中の激しい生活の中で夫がほっと一息つくのは、生まれて間もない成格のお守りをする時でした。大きな椅子の上にあぐらをかき、その中に赤ん坊を入れて、丁度巣の中の小鳥を覗き込むような格好で「良い子じゃ、良い子じゃ」と飽かず眺めていました。

 成格に対する父の愛情は生涯を通して変わることなく続き、成格もまた大変父を尊敬しておりました。高校生の頃からは、父子というより恩師と愛弟子のような話し合いが多かったように思われました。

 玉川用賀は当時大変不便な所で、その上ガソリンは次第に入手が困難になり、運転手も出征や徴用で取られてしまいましたので、夫が毎日出て歩きますのもなかなか容易なことではありませんでした。

 しかしそうした所にも拘らず、多くの方々がよく訪ねて下さいました。当時衆議院議員であった永野護氏、楢橋渡氏、日本出版会々長の久富達夫氏、河出書房社長の河出孝雄氏などはしばしばお出でになり、殊に永野氏はいつも庭の木の間を夫と密議をこらしながら歩きまわり、その儘風のように去って行かれる忙しさでした。

 昭和20年の5月中旬であったと思います。小磯内閣の時行なった夫の国会演説の原稿は一室に缶詰にされた上、激論の末に当時の陸軍次官の手でその3分の2を抹消されてしまったと聞きました。しかしその重要な部分の一部を敢えて発言し、翌日の朝日新聞の朝刊であったと思いますが、一面の真中に囲みの記事で掲載されました。それから間もなく軍を批判したということで憲兵隊に逮捕の指令が出されたのです。

 楢橋氏が事前に知って早速知らせに駆けつけて下さいました。氏は急ぎの用事があるからと、すぐ帰って行かれました。夫は私を伴って自室に入り、暫らく黙って座っておりました。そのさり気なく寛いた姿勢から、むしろこうした場合の夫の強さを感じました。

 「あいつらに俺がくくれてたまるか」と一人言のように申し、「俺に一つのチャンスを与えることになるだけだよ」と今度は私に話しかけました。逮捕されるかも知れないということは、既に二人共感じていたことでした。

 しかし夫の言葉は何らかの成算があってのことに違いありません。一年程前にスパイの嫌疑で軍法会議にまわされ、死刑の判決を受けた青年の無実を立証して連れて帰ったことがありました。

 「軍の首脳部だろうとアメリカ人だろうと、全部が全部敵味方に分かれてしまっているわけじゃない。止むなく立たされてしまった異なった立場で、実は同じことを考え合っている。誰も彼もがそう馬鹿になれるもんじゃないよ。一部の奴らを除けば通じ合うものは今も昔も少しも変ってはいない。話せばわかるもんだよ。だがしかし、このことにも限度はある。あくまでも詔勅による聖戦ということになっているからだ」。

 いいたいこと、やりたいことがどこかで止められる。通らないのです。でも通さねばならなかったのです。決して油断はなりませんでした。首相の小磯国昭氏は古くから夫とは懇意な間柄でそんな乱暴をするはずはないと申しておりましたし、軍の首脳部にも記者時代から親交のあった方々も多かったのですが、既に下剋上が横行している軍の内部では、上司の知らぬ間に何をしでかすかわからないということでした。

 殊に憲兵隊はなお東条の勢力下にあったのです。逮捕令は決して軽視出来ませんでした。当時陸軍は戦況の不利で焦躁しており、邪魔気のものは暗黙の中に取り除く位のことは平気でした。しかしその後間もなく玉川の家は戦災を受け、その翌日には逮捕状のあった渋谷の憲兵隊は跡形もなく焼け落ちてしまいました。邸の片隅に焼け残った倉庫を住まいにして、私達は戦災で失った女児の野辺の送りを済ませました。(つづく)

「夫を偲んで」⑧

 その後軽井沢の別荘に落ちのびました。玉川の家より広大な建物の中には前々からの布団、衣類、食器など2、3家族分位はありましたので不自由なく暮すことが出来ました。

 楢橋渡氏一家は横浜で戦災を受け、私達より一足先にこの別荘を仮住いにされて暮らしていました。国際地区軽井沢には敵機も近寄らず、東京で受けた空襲は一夜の悪夢ではなかったろうかと錯覚する程の静かさでした。

 しかし夫の身辺は東京以上に慌しさを増して参りました。鳩山一郎氏、石橋正二郎氏、坂本直道氏、本野大使など軽井沢におられた方々と往来して語り合い、また私宅その他でしばしばその会合も持たれるようになりました。外国関係者も在日者は殆んど軽井沢に集まっており、スイス大使は隣りに住んでいました。夫の仲間はいろいろのルートから大戦の真相や世界の情報をいち早く入手していました。日本の破局はその頃既に時間の問題でした。会合のときの論議は、如何にして徹底的敗戦を食いとめるか、また一方、万一の場合の後始末と再興の策如何、などでした。

 しかし軽井沢でも特高警察が常に夫達につきまとっていましたので、油断は出来ませんでした。東京でも同じような会合が持たれていました。ある日、鳩山氏が軽井沢の拙宅に来られた時、あいにく私は疲れのため伏せっておりました。

 別荘には1000坪程の見事な苔庭がありまして、氏はそれをめでつつ庭から入って来られ、客間を通り抜けながら、「いま葱の土寄せを済ませて来たところです。奥さんはお料理が上手なそうで、今日は楽しみにして来たのですが残念でした」といわれ、夫と共に応接間の方に去って行かれました。夫は、現在疵を負っていない、つまり国民の納得の出来る人は鳩山氏位のものだと申して、氏の今後に期待を寄せておりました。その後私は身重の体に大きな打撃が重なり、床につく日が多くなりました。

 昭和20年7月のある日、突然表玄関から大広間にかけて慌ただしい足音と大きな話し声がし、まどろみかけていた私は驚いて飛び起きました。楢橋氏一家は既に浅間温泉に移られ、夫は軽井沢と東京とを行ったり来たりの生活が続いておりました。

 あいにくその日は上京中で、家に別荘番一家と、夫が私の体を案じて東京から連れて来てくれた年老いたばあやだけでした。慌てて駆けつけて来たばあやは、「軍人さんが」と言ったきり驚いて口もきけません。やがてどたどたと無遠慮に日本間の方まで入って来た彼等は土足のままです。(つづく)

「夫を偲んで」⑨

 「ご主人は?」

 逮捕に来たのかも知れない……。

 さっと血の気が引き、体の氷る思いで私はじっと苦しさに絶えていました。

 「今おりません、旅行中です」

 「ああそぅですか」

 4、5人の将校達はどやどやと客間の前を通り過ぎ、中庭をまわって浴室の方へ行つてしまいました。

 「広い浴槽ですな、これなら一どきに5人や10人は大文夫でしょぅ」

 大声で話し合いながら浴室から調理室にまわり、それから二階、階下の各室を検分してまた広間に戻ってきました。逮捕に来たのではないことを知ると私は急に強くなり、彼らについて大広間に入りました。彼らは大きな丸テーブルの上に地図を広げる真似をして、「この部屋を会議室に使えますな」などとあれこれ勝手に相談をし合った後、

「この先の近藤別荘に近々皇太后陛下がご疎開遊ばされるご予定です。ここを参謀本部に使用することになるでしょう。ご主人に伝えておいて下さい。また明日来ます」といい残して、さっさと引き上げてしまいました。

 ちなみに昔三井の建てたこの別荘は、帝国ホテルを設計したライト氏が設計に3年を費やしたということで、その後も日本館、洋館共に、くるみ、糠、あるいは牛乳などで磨きあげられたもので、土足で入るようなものではありませんでした。一体私達をどこへ追い立てるつもりなのだろうと暗胆とした気持になり、また急に疲れが出てそのまま大広間の椅子に倒れてしまいました。くやしさと逮捕に来たのではなかったという安堵の気持とが交互にこみあげて参りました。電話で知らせを受けた夫は、その日のうちに帰って参りました。

 そして私の報告を黙って聞いただけでした。翌朝早く起きた夫は、「運動せんと難産になるぞ」と私を伴ってゆっくりと庭を散歩し、昨日のことはあまり気にもしていない様子でした。

 「今日は何時頃来るといっとったかい」 「うっかり致しました。聞きもらしました」 「そうか、あんな頭で国を台なしにしてしまいよる。無作法は奴らじゃ」 「……」 「あいつらに会ったらまたすぐ東京へ行くよ。せんならんことがたくさんあるからな。体に気を付けないかんよ」 「はい。でもお留守中に入り込んで来るようなことがありましたら……」 「今日きっぱり話をつけておく、そんなことはさせんよ」

 逮捕命令の出ている今、余りきついことをいって火に油を注ぐようなことになってはと、心配でもありましたが、また一方ではいつもの夫らしい大局をふまえてのものの考え方と対処の仕方があるのであろうと思う気持もありました。(つづく)

「夫を偲んで」⑩

 昼頃軍人たちが門からなだらかな坂道を玄関に向かってやって来るのを、大広間で見ていた夫はやおら立ちあがり、一足先に玄関に出て何の気負いもなく彼らを待ちました。

「昨日伝えておきましたが」
「俺はこの家の主人の岸井だ。名前をいい給え」
「古閑です」
「東条のむこだね」
「は」
「東条が取れというたか」
「いや」
「帰ってそういい給え。軍は勝手に国の資材を使うてたちどころに勝手なものを建てよる。俺は東京の本宅を焼かれた。その上別荘までよこせとは何事だとな。君らの理由は勝手に何とでもつく立場だ。しかし俺はそうはさせんよ。解ったら帰り給え」

 夫の今の心情その儘の静かな叱るというよりは諭すようないい方でした。息を呑んで直立不動の姿勢を取っていた彼らに表情の変化さえ与えませんでした。彼らはその儘敬礼をして帰って行きました。

 「もう来ることはない」

 翌日夫はそういって東京へ発ちました。ところがその翌日から私服の二人の男が無断で庭の中をウロウロと歩きまわりはじめました。「一人は軽井沢の人間で、特高警察の人です」という別荘番の言葉に、いよいよやって来たなと思い、夫に連絡をしようと思いましたが、よくよく考えてみますと、夫は上京中ですし、家を取りに来た様子でもありません。

 逮捕命令の出た時でさえ「逃げもかくれもせんよ、そんな必要もないし、第一仕事にならん」と申して軍部との折衝も続けていたようですから、こちらに逮捕に向かってしかも無駄な時間をひねもすウロウロしている必要もないわけでした。何のことやらわけが解りません。仕方がありませんのでこちらも遠くから彼らを観察することにきめました。彼らは周囲より少し高台になっている邸の中から一日中外を眺めています。

 別荘番にそれとなく話しかけさせて見ましたが職務上何もいいません。無断で入って来て我がもの顔に居座っています。こちらとしては全く妙なお荷物を抱えて暮しているような気持でした。

 一週間程たって夫が帰ってきました。空襲、逮捕の危険の中を歩いている夫です。帰るたびにひそかに夫の無事を心から神に感謝しました。夫は彼らの側に行き、何やら四方山話でもしている様子で、ニコニコと話し合っていました。そして別荘番にいい付けて二脚の椅子を彼らのために用意させました。私の家の近くにはアルゼンチン、スイスなどの大公使の別荘がありました。彼らはそこへ出入りするスパイの容疑者をチェックしていたということでした。もちろん夫の身辺と、出入りの人々を見張っていたことも確かでした。 「もうその必要はなくなる。古閑達もそうだが気の毒な奴らよな―」と夫は嘆息を漏らしておりました。

 夫から見て気の毒な人々は敵味方の区別なく、そこら中に充満していました。敗戦も未だ知らず、明日の命もわからずに何かを信じて職責を守っている若い彼らの顔を、夫は見るに忍びなかったようです。(つづく)

(福島 清)

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