随筆集

2021年6月15日

福島清さんの「岸井成格さんの父・寿郎さん」その7

【岸井成格さんの父・寿郎さん】

 岸井寿郎さんの最初の奥さんは病気で死去。2人の男児が成人した後、再婚した夫人も昭和17年に出産のため入院した時、亡くなりました。昭和18年4月に再々婚された慶子夫人との間に、成格(三男)さんと巍次(四男)が生れました。36ページにものぼる慶子夫人の「夫を偲んで」から、抜粋して紹介します。

「夫を偲んで」⑪

 昭和20年8月15日、どこかで用意されていた“平和”という言葉で終戦を迎えたのは、それから間もなくのことでした。その後暫くして、古閑少佐と特高の一人は自決をして果てたということを聞きました。

 終戦を迎えながら、自ら命を断たなければならなかった人達が余りにも痛ましく、しかも別荘に関わりのあったことがいつまでも痛く心に残りました。もう一人の特高は、夫に就職の依頼にきました。あの誇らしさは一朝にして失われ、見るかげもなくうらぶれ果てた憔悴の姿でした。しかし生きていてくれたことが、あんなにうれしく私の心をゆさぶったことはありませんでした。夫のいう一人一人に与えられた大切な命なのです。

 終戦と共に軽井沢へも政界、財界の人々が次々に集まり、私の家への出入りも多くなってきました。しかし避暑地の冬は余りにも早く、10月6日に四男の巍次が誕生しましてからは日増しに寒さが身に浸むようになりました。夫は大森の山王にあった関係会社の寮をあけさせて、ひとまず単身上京し、総ての準備を整えてくれました。普通の邸を寮に使用していたものですし、留守居の母娘がその儘残って手伝ってくれることになりましたので、夫の生活に支障はありませんでした。

 私は寒さの中で産後の体の回復を待ち、11月に入ってからはじめて東京の土を踏みました。軽井沢で会合を続けていた方々も次々に上京し、軽井沢構想は漸時具体化して行き、日本自由党の結党式をあげる運びとなりました。自由党の名付親は夫で、世界の自由党でなければならないから日本はいらないという意見でもあったのだということを聞きました。しかし夫は間もなく追放を受けました。選挙区の方々が心配して次々に上京し、慌ただしい毎日が続きました。

 その後、名門報知新聞の復刊の企画に加わり、社長に就任し、昭和21年末に復刊第一号を出しましたが、そのとたんにまたまた追放の追い打ちをかけられました。被追放者は新聞、雑誌、ラジオ、映画等広報関係に従事してはいけないということなのです。「政界を急に追放せられた以上、新聞に籠って言論で思う存分やっみるのはむしろ私の本命の仕事」と申していた矢先の出来事でした。

 「まあ、仕方あるまい。戦時中責任の地位にあったことに間違いはないのだから。政治を続けてやれば、俺の体そう長くは持つまいと思っていた。長生きをして若い人達を指導してやろう。また子供で俺に似たのがいたら志を継いでやることになるさ。それで良い」
と私に申しておりました。ある雑誌の寄稿文の一部に当時の心境を次のように記しております。

 『孔子は「五十にして天命を知る」といった。少しはわかるような気がした。孔子程の聖哲も時到らねば志を得ず、退いて後輩を教えて晩年を送った。もし若くして志を得ていたら、不朽の聖哲に達することはできなかったかも知れない。「人間万事塞翁が馬」。それから私の家には平和な日常が続くようになりました』と。(つづく)

「夫を偲んで」⑫

 確かにその通りの生涯に入って行きました。若い政治家や財界人の指導に当たり、表面には出ません。でも夫の意見がその儘政府の見解として大きく各紙面を賑わしたこともしばしばありました。結局は政治に関与していたことになるわけで、当時の日本には夫は大事な人であったと思います。政治関係の方の出入りの他に、戦前やっておりました日本橋の会社と同じ光景も展開されました。就職、金策、食糧その他諸々の用件をたずさえて入れかわり、立ちかわり多くの人々が夫を頼って訪ねて来ました。

 夫は誰がどんな用件で訪ねて来ても大変うれしそうでした。それはお互に心の通じ合う人々であったからなのです。話がはずんでいつしか用件が時局談に移り、時のたつのも忘れている様子でした。

 「良い人間程困っている」、戦後の混乱時にはなお一層その傾向が強くなりました。戦争を大いにあおった人達こそ、恥も外聞も忘れてGHQに取り入っての追放解除の暗躍に躍起となっていました。善悪、清濁が自ずと表われ出る皮肉な時代でもあったのです。

 こうした中で夫は政界から身を引く決心を致しました。そのため、追放解除後はせっかくの選挙区の方々の熱望にも応えられず、厚意を無にしなければなりませんでした。夫もそのことが一番心残りであったようでした。その後は文字通り悠々自適の生活に入りました。毎年軽井沢で7、8、9の3カ月を過ごしました。政界の方々の他に石坂泰三氏、原国造氏など財界人もしばしば訪ねて来られ、碁に興じておられました。

 石坂氏は、東京帝大の4、5年先輩でいらっしゃいます。戦時中と違いまして夫の周囲に機密の会合がなくなり、食事をしながらの氏と夫とのさわやかな政談に心引かれて、つい座を立つのを忘れることもありました。客を迎えることは主婦にとっては生きた学問をさせて頂ける絶好のチャンスでもありました。夫の友人はどなたも非常に家庭を大事にされていたように思いました。決して甘やかすという意味ではなくて、しっかりそこに根をおろしているという感じでした。家庭の重要な意味と、妻や子供にも大いに責任のあることを痛感せられました。(つづく)

「夫を偲んで」⑬

 石坂氏が病身の夫人を非常に労わっておられたことも雑談の中にしばしば出て参りました。また学生であった令息の友人達が毛布一枚かついでぞろぞろと別荘に押しかけて来たので、逃げて来ましたと愉快そうにその様子を話しておられたことなど、人間石坂氏の一面を見せられることも多くございました。

 石坂氏の食事のなさり方、好物など人柄そのままに豪放で大変ほほえましいものがありました。また永野護氏が軽井沢の拙宅に泊られたときのことでした。茶室で一人で庭を眺めておられましたので、お茶をたてて差しあげようと思って参りますと、「世間では僕のことを机竜之助などといっていますが、如何がでしょう。ご主人を大変適確に評価されるそうですが是非聞かせて下さい」とのことに全く赤面致しました。夫のことを勝手に評価して「見損うな」などと叱られている私なのです。

 永野氏は戦時中、玉川へもたびたび来られ、国事に奔走していられた様子も存じておりますし、また前日は大勢の兄弟を親がわりに育てられたという昔語りも聞かせて頂き、私の考えていた永野氏の口から語られるのに相応しい話と、尊敬の念を深めていたところでした。「どうも陰険だということらしいのですがね」と、大変真面目なお話のようでした。

 夫が参りますと氏はまた同じことをいわれました。

 「そういう誤解を受け易いところは多分にあるよ、君」
 「そうかな、気を付けないかんな」
 「上に立つものは警戒心を持たれると真実が耳に入らんようになるからな」
 「そうだな、注意しよう」

 最初は単に笑い話で済む問題かと思っていましたが、噂も疎かにせずに、まず受け入れて考える、その会話が二人の間でさらりと進められて行きました。

 津島寿一氏は、夫の出身地香川県の先輩で、気に入った別荘が見つかるまでと軽井沢の拙宅でしばらく一緒に暮したことがありました。夫人も静かな方でしたが、氏も永らくイギリスに滞在しておられたせいか典型的な英国風の紳士でしたので、あくまでも礼儀正しく、端麗で、人間津島氏の一面を見せるということはありませんでした。夫と時の経つのも忘れて碁に興じたり、経済談義に花を咲かせたりしておられました。

 ある日、二人が碁盤を囲んでいた時、夫人が「その場で勝敗のきまる勝負の世界なんて、厭、厭」と肩をすくめて見せたのが、如何にも優しい夫人らしくて印象的でした。

 料理に凝っていらした氏は、コックを抱えておりましたが、夫人があるとき女中の切り残した細い沢庵のしっぽをつまみ上げて、

 「私は小さい頃、沢庵のしっぽというニックネームでしたの。一番末っ子のせいもありましたけど、実はしなしなしたしっぽが好きでしたので」。

 人間そのものが通の域に達していたのでしょうか、さり気ない話し方をされる方でした。(つづく)

「夫を偲んで」⑭

 私は夫の傍に生き、多くの方々に接することが出来て本当に仕合わせであったと思っております。夫はこうした生活の間に、山歩きも致しました。澄んだ空を眺めながら、「またそろそろ地球を料理するか」、ということで技師を伴ない、別荘番に弁当などを持たせて戦後間もなく鉱山や温泉の探索をはじめました。

 鉱山は東大の石和田章三先生、温泉技師は三雲康臣氏でした。夫は工学、化学共に豊富な専門知識を持っており、また地質学にも勝れた見識を持っていましたので、石和田氏、三雲氏共に夫の意見を尊重して調査を進めておりました。

 いつの頃からか、私は単に出歩きのお伴のつもりでしたのに、すっかり地球の内臓を探る仕事の虜になってしまいました。

 政界に入る前に新聞界から初めて事業界に入ったばかりの頃は、夫も最初から大鉱山に取り組んで大変苦労もし、勉強もし、また大きく儲けもしたようですが、その頃は主に非金属の鉱山を見て廻り、長硅石の鉱山を買い取り、他にまだ海のものとも山のものとも解らない鉱石の開発にも興味を持っておりました。

 「きっとこの白さが役に立つ」といった具合に簡単に鉱山を買い取り、それから分析や、化学試験などをさせてその結果を楽しみにしておりました。それをアート紙、農薬その他に使用可能なものにして業界に送り出しました。

 これより先にも硝子、陶器に同じ苦心の末世に出したものが既に20数年老舗のブランドを誇っています。不思議な才能の持主でした。これだけ投資したらこれだけ儲かるなどということは余り念頭にはおいていなかったようです。もちろん良い悪いは別として金儲けが主でなかったことはたしかで、大事業を引き受けてもらいたいという申し出でには応ぜずに、若く有為な人材を推薦する努力をしておりました。

 一生の仕事として選んだものは儲ける儲けないの問題ではなくて、やはり政治、新聞であったようです。鉱山、温泉の仕事は地球に穴をあけて、無から有を生じて世の中を潤したいということでしたので、様々な試験の失敗を繰り返して成功を見た時の嬉しそうな顔には温かい人間味が溢れておりました。「金は勝手にうしろからついて来よった」と申しておりましたが、全くその通りでした。自由に勝手に生活をしておりましたのに、不思議に経済的には大変恵まれておりました。(つづく)

「夫を偲んで」⑮

 温泉調査もまた楽しいものでした。夫は地質学者の異端者的な存在であった三雲氏の調査技術に惚れ込んで、夏はいつも氏と私、それに別荘番、ある時は写真技師まで伴って浅間周辺と申しましても何十キロも離れたあたりまでですが、隈なく調査して廻りました。地質学的に種々難しい原理はあるのですが、兎に角それらの上に機械で実際にキャッチした地下の脈の形態が合致して行く面白さは、夫ならずとも魅せられてしまいます。

 爆烈口と称する地下深くひそむ小噴火口を探り当てた時は、三雲氏は子供のように嬉しそうでした。勝れた温泉脈の元となるものでした。その近くは崩れ易いので掘るわけには行きません。その上火山の近くを掘ったときと同じように湯がなく、ガスが噴出するということで爆烈口から走り出ている温泉脈を地質、地形などを見ながら適当な場所を何キロ、あるいは10何キロも離れたあたりまで探索します。

 5万分の地図の上に、実際にキャッチした点を記し、その2カ所を結んで延長すると、先に記しておいた爆烈口あるいは火山に間違いなく走って入ります。あるいは反対に探索した脈の線が放射状に走って一点で結ばれ、そこを訪ねてみますと、古い噴火口であったり爆烈口が発見されたりもします。

 大断層の上に建築物がある場合には三雲氏のいっていた通りに大変腐蝕や崩壊が早く、また神経痛その他の長患いの人が住んでいることも信じ難い程適確に立証されてゆきました。強烈な放射能のせいでした。山津波のあったあたりには大断層がありました。

 三雲氏はドイツで地質学、温泉、水源、石油等の調査の修業をされ、ドイツ人の恩師から譲り受けた機械で調査していました。放射能を捉える時、自分自身の体がアースの役をするらしく、食事をすると嘔吐を催しますので梅千を食べながらの作業でした。

 機械の正体は決してみせませんでしたが、現代のものから見てあるいは原始的であったのかも知れません。原始的であったからこそ人間の知恵が徒らに加味されずに宇宙の法則とぴったり合致するということにもなるのでしょう。

 氏は全国に大きな数多い実績をもっておりました。自分の学説を何ものにも侵されまいとする態度はかたくなにさえ思える程でしたが、夫は20数年来彼にのみ任せ、その技量を高く評価しておりました。何万年、何10万年前の地質の成り立ちや法則との関係などから解き明かして行く温泉脈の原理の面白さは、いつしか引き入れられて納得が出来てゆきました。

 山野の下草の枯れているときが一番調査し易いわけですが、夫は体力づくりや山歩きの楽しみを兼ねてのことですので季節を問いません。大体気候の良い時期に出かけますので、三雲氏も大変であったろうと思います。美しい自然の中で、私は夫と同じ目的に深い興味を持ち、瞼しい山道を手をさしのべ合いながら汗し、そして語り合いました。

 火山の周辺に身を置くとき、いつも二人で見に行きました大遺跡展、古代美術展のポンペイ、メソポタミアツタンカーメン、ヴェルサイユ展などの興奮を新たに覚え、溶岩、地層断層、焼石の考察がいつしかそれら古代人の生活様式、美術品の持つ神秘さに話が移って行きました。自然と融和して生き続けた人間を、いとおしむ心に相応しい雰囲気の中に二人はいたのです。それは甘く、はかなく、もの悲しいものでした。その中にとらわれたときいつしか二人の間にも美しい神秘の恋が芽生えていたのかも知れません。今、鮮烈な思い出となって蘇って参ります。

 夫は温泉調査の足跡を各地に残し貢献致しました。20数年行動を共にした三雲氏も夫より一足先に旅立たれました。(つづく)

「夫を偲んで」⑯

 政治、新聞、鉱山、温泉のすべてが夫の人間愛から出たものでした。

 「おとう様は人一人が一生、かかっても難しい仕事を180度の転換をしながらいくつもやり遂げ、何人分もの人生を送られたのですね」。

 巍次がはじめて社会人になったとき改めて驚嘆していました。夫は政治、経済はもちろんすべての新しい知識も絶えず吸収し、世界の情勢に目を向けて的確な判断を下し、後に続く一人一人を大切に指導し続けておりました。夫に接した方々は夫の精神からきっと何かを受けて下さったものと信じています。

 成格は父親のすべてを大変尊敬していたようです。自然を愛した夫は人間そのものをも非常に愛していました。だからその本質や生き方に深く目を注ぎ人間追究の手を最後まで緩めることなく「ジュラント」の世界の歴史6、700頁の本を1日100頁程の早さで読み進み、月1回の配本を待ちかねておりました。核心に触れるところには栞を挟んでおき、私に後でゆっくり読むように、そして時間ができたら一巻から丁寧に読むが良いと申しておりました。

 奇しくも全32巻を読み終えて間もなく、私に「あの本はもういいんだよ」と申し最後まで確かな思考力を持ったまま、それらの過去の人々の中に融け込んで行ってしまいました。

 「ジュラント」のほかに、伊藤清の明治精神に生きる、富永健一の社会変動の理論、L・エルコーザーの知識人と社会、永井陽之助の柔構造社会と暴力、マーシャル・マクルーハンの人間拡張の原理=メディアの理解などをつぎつぎにひもといて、読書三味の明け暮れでした。

 これより先、亡くなる4カ月程前のある日夫は私の手を握りながら突然「お前は俺の手で作りあげた立派な財産だ、これをおいて死ねますか」と申しました。その時は、本人もそうであったでしょうが、私も別れるなどとは夢にも思っていませんでしたから「お前をおいて死ねますか」といった愛の極限のような言義だけが大きく私の心を震わせました。思わず涙ぐみながら、恥かしさも手伝って堅くなって俯いてしまいました。仕合わせ過ぎるような気もしましたが、夫の口からぎりぎりの愛の言義などを聞くと痛々しい気も致しました。

 そんなことをとつおいつ考えているうちに、私を財産などといった言義が少々心に掛りはじめました。

 「財産って……」

 思い切って、私は小さな声で聞いてみました。私は夫の心の疲労を極力防ぎたい気持から年毎に会話は手短かになって行きましたが、かえってお互の心の触れ合いは深さを増していました。

 「宝ものでもええ」

 おおむ返しにいつものほほえましい素直な返事がはね返ってきました。

 「俺のやってきたことはすべて俺の心だ。そのことはお前も十分に知っていたはずだな。小笠原の会社、土地もそうだ。ぜひ金にしたいという人に頼まれて援助のつもりで買って上げたものだ。戦時中は食糧難に苦しんでいた東京の人々を救ってやりたいと思い、肉、野菜、果物、乳製品、砂糖等当時手に入らなかった品々を船で運んで無償で配給してあげた。それはお前も知っての通りだ。戦争が激しくなり船が行けなくなってしまい、一部にしか行き渡らなくて残念であったが、つまり俺が財産といった意味の中には物とか金とかの観念はない。心あるいは命といってもええ。解ったかい?」

 私は黙って聞きながらひたすら夫に長生をしてもらいたいと念じていました。80歳といえば既に天寿を全うしたと考えられる年令には違いありませんが、全く持病というものがなく、したがって夫も私ももう20年共に元気で暮したいと願い、お互いにあらゆる努力を払ってまいりました。そしていつしかそれが確かなもののように思いはじめていたのです。(つづく)

「夫を偲んで」⑰

 そんなことをあれこれ思いめぐらしていた私に夫はさらに尻上りの優しい声で「解らんかい?」と問いかけてきました。「解りました」と答えた時私の日からは既に涙が流れ出していました。

 「小笠原に老人の楽園をつくりましょう」と私が提案すると、夫は「うん……。」と答えて目をとじ、それから「あの人も、この人も連れて行ってあげよう」と早速人選に取りかかり、楽しく話し合いました。

 その人はもう逝ってしまったのです。「そのうちに私達も小笠原のお月様を眺めて暮しましょう」と毎日のように語り合っていましたのに。

 「病気だ」とは決して申しませんでした。中央広告通信、東京ポスト社長岩田富美氏を夫は20数年来わが子以上に可愛いがっておりました。氏は夫の体を案じて大きな病院に優秀な医師団を構え、いざという時に備えてくれました。また成格も慶応その他の病院の院長、副院長と懇談を重ねて備えを固めておりました。しかし遂に夫の翻意を促がすことはできず、最後に静かに近距離の病院に入院致しました。院長が立派な方で夫の意を尊重して扱って下さいましたことを心から感謝しています。治療は受けたくないという夫の意になるべく添うようにはかって下さいました。

 急であったにも拘わらず、設備の整ったドックの部屋を二つ提供して下さり、万全を期して下さいましたが、夫は静かに自分自身の心で命を見詰めながら最後まで死を意識することなく、明日を信じて永遠の眠りにつきました。私には生命に対していざという時死を覚悟しての強さがありました。夫には生きている限り死を認めない強さがありました。私も夫にならって、弱い体で医薬から離れて20数年になります。その強さの相違をはっきりと知らされた瞬間でした。

 アメリカ在勤の巍次も入院と同時に帰国し、最後の孝養を尽し得たことは何よりでした。夫は亡くなります5カ月程前から巍次に会って話したいと申しておりましたから。

 夫は成格(毎日新聞政治部記者)、巍次(伊藤忠商章ニューヨーク駐在、26才)、それに孫の大太郎(東大教養学部在学、18才)、雄作(慶応義塾高校在学、16才)、美恵子(同中等部在学、12才)たちをはじめ、甥姪の子供達や、岩田氏の長男の健作ちゃん、長女の典子ちゃん、など夫を尊敬し慕っていた多数の良い後継者に恵まれております。夫の心が永遠に引継がれて参りますことを願ってやみません。

 夫の人生をより有意義なものにし、常に見守って下さいました多くの皆様に心から感謝申しあげます。(「夫を偲んで」おわり)

(つづく)
(福島 清)

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