随筆集

2021年6月17日

ときの忘れものブログ:平嶋彰彦のエッセイ 「東京ラビリンス」のあとさき その13 南房総の野菜畑(抜粋)

 野菜作りを始めてかれこれ10年になる。房総半島南端の館山市に実家が残っていて、目の前が畑になっている。両親は2人とも亡くなって、だれも住んでいない。私がいま住んでいるのは習志野市で、週末になると妻と2人で実家へむかう。一般道路だと距離にして110キロ余り、片道3時間半かかる。

 畑の広さは、登記台帳を見ていないが、目見当では400坪から500坪ぐらいはある。趣味の家庭菜園としては、3分の1もあれば充分である。しかし、畑を遊ばせておくのがもったいなくなり、ついつい畑いっぱいにあれもこれもと植えてしまう。

 そうしたくなる理由はほかにもある。実家のあるあたりは、房総半島でもとくに暖かく、霜の降りることは何年かに1度しかない。ナバナ(菜花)は9月に種をまくと、11月半ばにはつぼみをつける。サニーレタスは1月でも2月でも、種を蒔けば芽が出る。春夏秋冬を問わず、その気になれば、多彩な野菜作りのできる恵まれた自然環境といえる。そんなこともあり、畑にはいつも10数種類の野菜を併行して作っている。

 商品作物を生産しているのではなく、あくまでも自家消費が目的の家庭菜園にすぎない。たくさん作ったところで、親戚や知り合いに配るだけで、一円の収入にもならない。にもかかわらず、年がら年じゅう時間に追われ、のんびりしている暇がない。毎週1泊2日で、実働1日という日程にも無理があるのだが、とりわけ、4月下旬から6月初旬までと、9月から10月中旬までは忙しい。

 今年は4月下旬からの1ヶ月間に、ソラマメ・ジャガイモ・タマネギ・ニンニク・ラッキョーを収穫し、そのあとにスイカ・ナス・サツマイモ・トマト・キューリ・ゴーヤ・オクラの苗の植えつけや種まきをしている。この時期に夏秋の作物冬春の作物を交換させる。早いはなしが、畑の衣替えをするわけだが、作物の出来具合や天候の成り行きを見極めるのが難しい。そのため、収穫と植えつけの進行が混乱して、いつもきりきり舞いになる。 田舎の朝は早い。夏の季節なら4時すぎには目が覚める。起きたらすぐに畑にでる。夜間にたっぷり水分を補給した野菜が瑞々しい。ぼんやりと眺めているだけでなんとなく気分が高揚する。1日のうちで私の大好きな時間である。陽が昇るのと前後して、あちこちの農道を軽トラックが行き交う。農家の人たちが特産の花卉を栽培するビニールハウスを見てまわっているのである。ハウス内の温度と換気の調整をするのだが、一番の目的が何かといえば、花卉の育ちぐあいの観察と健康状態の診断にあるのだという。

 農家の人たちほとんどは幼なじみである。顔を合わせれば、声をかけあう。あれこれ立ち話をしているうちに、作物の育ち具合や病虫害・鳥獣被害などの最新情報が得られる。彼らは自分の畑だけでなく、よその畑にも目配りを利かせている。私の家のような野菜畑のようすまでよく分かっている。

 同じ種類の野菜を同じように作っても、豊作の年もあれば不作の年もある。一番大きい要因は、なんといっても天候ということになるが、もちろんそればかりではない。今年はソラマメ=写真・下=が私の家のあたりでは不作だった。私の場合は4合の種から90キロ余りを収穫しているから、それほど悪い成績でもなかったが、栽培農家のなかには収穫する前に後片づけをすませてしまったところもあったという。

画像

 ソラマメは連作障害が厳しい。その対策として土壌消毒剤や土壌改良剤を用いるのだが、それも効果がなかったということかもしれない。私も連作障害に悩まされ、栽培方法を変えてみたり、土壌改良剤を試みたりしたが、うまくいかなかった。いまは土壌改良剤も使っているが、少なくとも2年の空白期間を設けるとともに、ソラマメ以外のマメ類も作らないようにしている。ところが、今年の場合も、収穫前に樹が枯れてしまうとか、しっかり実をつけていない箇所がそこかしこにみられた。原因は連作障害のせいだという意見が多いが、春先の低温のせいだという人もいて、確かなことは分からない。

 病虫害と鳥獣被害も野菜の栽培を難しくしている。

 ソラマメでいうと、アブラムシがつきやすい。1つの株から何本もの幹が伸び、春先に花が咲くのだが、ちょうど実をつけ終るころになると、決まったように、一番上のやわらかい芽の部分に、アブラムシが発生する。アブラムシを見つけたら、その樹だけでなく、畑全体のソラマメの芽を摘んでしまう。すると、それ以上は広がらない。

 ところが、今年にかぎっては、早くからアブラムシがついた。まだ満足に実がついていないから、芽を摘むわけにはいかなかった。消毒することも考えたが、妻がそんなことをしたら人にあげられない、といって反対するので、それもできなかった。仕方がないので、ソラマメの1本々々を見てまわり、アブラムシを払い落していった。

 翌週に行ってみると、払い落としたはずのアブラムシがむしろ勢いを増している。こんなことをしても埒が明かないと思ったが、2人で何時間もかけて払い落としていった。3週間目になって、我慢もこれまでと思って芽を摘むことにしたのだが、そのときには、アブラムシは幹の下まで広がっていた。このままだと全滅しそうな気がするし、そうならなくとも、まともなものが収穫できるとはとうてい思えなかった。ところが、次の週になって妻と2人して驚いた、というよりも、目を疑った。アブラムシは1匹も残らず、まるで何ごともなかったように、ソラマメ畑から姿を消していたからである。

画像
スイカ

(途中略)

宮本常一の名言がある。

 自然はさびしい。しかし人の手が加わるとあたたかくなる。

 このあとに「そのあたたかなものを求めてあるいてみよう」と続く。1960年代のTV番組『日本の詩情』(日経映画社)のナレーションである。

 耕作を放棄した田畑は、たちまちに草茫々の荒地に姿を変える。自然に回帰しようとするのである。自然とは人間の力の及ばない領域の総称といっていいかもしれない。私たちは人の気配の消えた風景に心を癒されることはない。まして、そこで生まれ育った人なら、なおさらのことである。

 だが、物事には始めがあれば終わりもある。

 これから5年もすれば、否も応もなく、私は80歳になる。常識的に考えれば、畑仕事はなんとかこなせる。とはいっても、車を運転して習志野と館山を往復するのは、体力的に難しくなるばかりでなく、はた迷惑な行為として嫌われるのはいうまでもない気がする。