随筆集

2021年6月21日

福島清さんの「岸井成格さんの父・寿郎さん」その8

 追悼集「岸井寿郎」には「久富氏の死」「正力松太郎氏との秘話」「知友の死に思う」「日記より」の5編の遺稿が掲載されています。この遺稿の中にも身辺のことに加えて、激動の昭和時代に直面した出来事とさまざまな方々のお名前が出てきます。昭和史の一断面として貴重だと思います。

「久富氏の死」①

 (前略)僕が初めて久富君に会ったのは昭和6年、僕が政治部長になった時であった。いかにも威風堂々の偉丈夫が政治部にいた。それが久富君であった。仕事をしているとなかなか細かいところに気のつく男であった。それから僕は同君を注意した。満州事変から上海は事変と大変動の時代であった。新聞社、殊に政治部は毎日毎晩、一刻も息を抜くことのできない緊張の時代だった。その上僕は印刷部長兼務という全く新聞社では異例の激務であった。久富君といわず部員全員は必死の健闘を続けていた。

 時も時、僕は政治部員時代や印刷部長時代の不摂生のたたりで身体には異変があった。それは消化器の全機能が全く癒病しているというのである。

 時の胃腸病の大家、南大曹博士から、『命が惜しければ絶対禁酒と食物の摂生』とを厳命せられていた時であった。1日の睡眠3、4時間、昼食などトーストに番茶だけ。バターもジャムもつけてはいけないというのである。今思い出しても「よく持った」とため息が出る。

 やがて政治部の立て直しの時が来た。僕は久富君を副部長に抜てきしてデスクに据えた。先輩、奥村不染氏に「岸井君は乱暴な人事をやるネ」とからかわれたのもその時であった。久富君の入社年限が短かかったためであろう。しかし、その時代はそんなことに構ってはいられない激動期であった。幸にして久富君はよくその職責を全うしたのみならず、僕の病気による欠陥をカバーしてくれた。新聞は常に社会からも畏敬された。一面、社内にも本山老社長の急死から様々な異変が起った。僕は転じて営業局次長となった。その時久富君は僕の後を襲って政治部長になったのである。久富君と僕とは文字通り内外共に激動の時代を密接に協力して過ごした。外からはほとんど二人は一身同体のように見られていたようであった。

 爾来、私は吉武鶴次郎老専務の下にまた新しい仕事と取組んだ。が、社内はこの数年間に他の企業体が10年、20年にも相当する変化を経た。僕の健康は既に回復することができなかった。このまま仕事を続ければ生命も保ち難い。一方、新聞事業に対する僕の情熱もさめていた。社内外の情勢も落ち着きをみせている昭和12年、僕は意を決して新聞から身を引く決心をして辞表を出した。その足で久富君を東京会館に呼んだのである。

 やってきた同君は何か異様な空気を察知したのかも知れない。「おそくなりました。何のお話でしょう?」と沈痛な面持ちである。僕も暫く押しだまっていたが、おもむろに口を切った。

 「実は予め君達に相談するのが道だが、相談すれば僕の意思が曲げられることは必定なので独りで腹を決めてしまったのだ。僕の健康は君も知っている通り自他共に認める難症だ。また、一方、新聞事業に対する昔日の情熱も消えてしまった。今社内も何とか落着いている。この時を逸しては、このままズルズルと心にそぐわぬ仕事に余生を費やしてしまうことになる。長い間親交を続けてきた多数の諸君に対しは自責の念にたえないのだが、この際引退したいのだ。それで今、限に辞表を庶務部長に渡して来て君にここへ来てもらったのだ」と一気に心境を訴えた。(つづく)

「久富氏の死」②

 久富君は一瞬蒼白となって首を垂れていたが、
 「それは誠に困ります。ただでは済みません。社に対して不平のためではありませんか?」
 「誰でも職務についていつもフルに満足している人はあるまい。いや不平などは少しもないと白々しいことを君にいう気はないが、引退の意を決したのは、それだけではない。健康が第一だ。社の仕事に情熱を失ったのが第二だ。そこで僕はみんなに頼むのだ。この機に僕を解放してもらいたい。僕は人生をこれからやり直したいのだ。君の部員は人材揃いだ。万一、このために軽挙する人があってはその人の前途を誤る。僕は今君にいったとおり既に辞表はその部署を通して公式に大阪本社に出している。無理なことは重々承知の上で君の了解を求めるのだ。また、多数友人の説得を頼むために君に来てもらったのだ。今さらどうにも変更はできない」。 

 久富君は沈痛な面持ちで幾度か翻意を迫ったが、僕の決意の動かし難いことをみて「兎に角、私は4、5人の諸君と相談してまた、夕方ここにきますから岸井さんはここにいていただきたい」といつてトボトボと会館を出た。夕方、5、6人がやってきて色々興奮する場面もあったが、私は只々、諸君の了解を懇請した。

 「すでに庶務部を通じて辞表を出したのだから今更、何ともならない。元から印刷局の諸君、営業局の諸君にもそれぞれ了解を得なければならない。諸君の情誼は心から感謝しているが、これから他の方面の後始末をしなければならぬ。許してもらいたい。ここ暫らくは自宅では誰にも会えない。これも了解してもらいたい」といって会館を出た。

 今、久富君の計に接して生々しくその日の記憶が蘇えって離れない。僕にとって久富君は実によきパートナーであった。政治部長として良き女房役を得、良き後継者を得た。その後久富君は編集総務となり、戦時中は下村海南情報局総裁の下で次長となり、縦横に活躍したが、国の敗戦は同君を世の中から葬り去った。二重、三重のパージで蟄居の外はなかった。

 僕は衆議院議員として、また言論、出版関係出として二重の追放を喰って、同じ配所の月を眺める身となった。爾来、同君は持前の幅広い活動を開始した途端に病魔に襲われたのである。頑健そのものの体躯、それに似合わぬ細心の心遣い、厚い情誼、同君の好きな真に稀にみる持領の材であった。君を追想すれば数限りない。(つづく)

「正力松太郎氏との秘話」①

 今流行の言葉でいえば情報産業の雄、正力松太郎氏が84歳を一期として今暁逝去したとNHKがニュースを報じた(注:1969年10月9日)。自分は自室でニュースを聞かなかったが、慶子が直ぐ伝えたので吃驚した。 

 一昨日、山下芳允君来訪の時、あるいは彼が正力氏の近況を知っているのかと思って聞いてみたが、「最近は大分良くなって、退院して動きまわっているよ」とのことで、自分が理解しているのとは大分違っているので「そうか」といっただけで正力氏についての話はそれだけで終ったのだが、やはり悪かったのだなと思った。

 自分と正力氏との関係は一時は非常に親しくもあり、また色々のできこともあったが自分が新聞界の足を洗ってからはだんだん疎遠になっていた。最後に会ったのは41年の秋ごろ、坂本直道君の出版記念祝賀会の時だ。当時、互になつかしい話をしたものであった。その時既に、見たところ足許が一寸頼りなかったことを思い出す。その時同君が娘婿の小林を副社長にしたことを喜び、彼は学生時代、東大きっての秀才であり、官界においても群を抜いて昇進した話をアケスケに喜んで話していたことが印象的であつた。この際、一寸、同君と自分との関係を書きとめておこう。

 正力氏は役人上りであった。山本権兵衛内閣で警視庁の刑事部長と雷名を挙げたのは衆知の通りだが、当時の大逆事件で内閣が崩壊した当時、経営不振で歴史ある読売新聞も気息エンエンたる有様であったが、彼氏どんな確信があっか、後藤新平氏に懇請して資金を得、読売新聞を買収して乗込んだ。当時新聞界に二大紙の村山、本山両鬼才が東京にまで進出、東京朝日、東京日々は隆々たる勢で拡大しつつあった。東京には、尚、国民新聞に老いたりといえども徳富蘇峰健在であり、報知新聞には三木善八郎がいた時代である。「役人上り何するものぞ」というのが新聞界の通説であった。

 事実、読売は依然として背伸びをしても思うようにならなかった。しかし、正力氏は真険に研究もし苦心もしていた。僕の日日新聞の友人に宮崎光男という男がいた。小がらで可愛いい顔の男であったが、それがどういう筋からか正力氏に引抜かれ、読売に入り編集の一部を担当していた。当時、日日新聞は旭日昇天の勢で四辺を風びする勢であったから、日々の風を読売に植付けるためであったろう。宮崎君が編集でメキメキと地歩を進め、編集の全面をやり繰りするようになっていた。しかし新聞そのものはまだ問題にならなかった。

 一日、僕に会って話した時、突如として、「岸井君、うちの正力社長が君に会いたいから橋渡しをしてくれというんだ。君、会ってくれないか」「何の用事だネ」「いやいろいろ新聞のことについて教えてもらいたいというのだ」(つづく)

「正力松太郎氏との秘話」②

 当時、自分は印刷部長で盤根錯節の印刷部を2年がかりで再建してホッとしていた時である。しかも当時、各新聞の競争は血みどろの時代に、読売の社長に会い、しかも内々で会うということはどうも後暗いことだし、万一噂になればとんでもないことになりかねないので、自分はことわった。ところが、その後数日してまた、宮崎君が「君迷惑だろうが、僕を助けると思って会ってくれないか。僕は懇々と何度でも頼まれるので困っているんだ」。

 色々考えたが日日時代兄弟のようにして過した飲み友達であり、心から親愛していた宮崎のことで、これ以上ことわることができなくなったのみならず、変り種の正力という男に興味もあった。会うだけのことで何も社内の秘密を話すわけではないのだから新聞人が人に会うだけをビクビクする必要はないと思った。

 「それでは会う」といったら数日にしてまた宮崎が訪ねてきて「何月何日、山王の○○茶屋に来てくれ。ボクと小野瀬顧間(新聞界の長老)が正力社長と同道する」という。これは少し変だなと思ったがその時間に宮崎につれられて茶屋に行ったら、正力氏と小野瀬の二人がもう待っていた。

 簡単にあいさつして酒宴になってみんなが酒面になった時、正力氏は「岸井さんに迷惑なのは重々わかるのですが、一つあなたに印刷のことを教えていただきたいと思いまして」と話は核心に触れてきた。
「良いですよ」
「実は最近の日日新聞の印刷の見事なことは全く天下の見ものですが、一体どうすればあんな立派な印刷ができるのですか」

 「ハアーそれは簡単でもあれば、また複雑でもありますネ。一口にどうすれば良いかといわれてもチョッと返答ができかねますが、しかし、やり方をお教えしても宜しい。たとえば写真スクリーンの目を2割こまかく直すとか、良い機械を入れるとか、良いインキを使うとか、良い活字、良いローラー……。しかしそんなことは何でもない。いくらでもいいますが、それで実効を挙げるということとは別ですよ。あなたはそれを実施できると思いますか。実施するのは工場の幹部です。工員です。それを自由に動かし、当方のいう通りやらせることができれば良いんですよ。要するに良い印刷はその人をつかむか否かにあるんです。僕が今、細かいことをあなたに説明してもおそらく皆さんはわかりますまい。あなたはまず印刷の細部を勉強してからでなければならず、腹心の工員をつくらねばならぬ。おわかりですか」(つづく)

「正力松太郎氏との秘話」③

 正力氏はしばらく沈痛な面持ちでジーッとしていたが「良いことを聞きました。わかりました。今日はどうぞ一つゆっくり召上って下さい」といって私の顔を見て笑い出しだ。一瞬、緊張した空気はほぐされた。それからは主として私は小野瀬に向って昔からの新聞の歴史などを聞き3、4時間も談笑して別れた。

 会見についてはいう者もいないし、また内容が別に社の機密を漏洩したわけでもないので自分は晴れ晴れとした気持で過した。しかし、読売新聞の印刷はなかなか良くならなかった。その後、東日から小泉某など小生の部下を迎え入れた。鋭意改革を企てたようだが、世に認められるような印刷にはならず、したがって会見が問題になることもなかった。

 当時「新聞の新聞」という内報があって、僕のところにも、東日の印刷が評判になっているものだから、年中やってきていたが、正力氏との会見後一年以上も経ったある日、突然、「岸井さん、秘中の秘を聞きこんだ。正力さんと色々話していたら“僕は東日の岸井君に新聞の大切なことを教わった”。何を教わったか聞いても答はない。“秘中の秘”だというんです。何ですか」という。「いや雑談だよ。正力君がいうのは何を意味するかしらぬが、俺は新聞に別に秘密なんかありゃしないというようなことを話しただけだ。正力君が何か 役に立つことがあったのかしらんが俺には覚えがないネ。正力さんに聞けよ」といってとりあわなかった。

 その後、同君は何年もの間、いわゆる“秘中の秘”をかぎ出そうと僕を誘ったが、とうとうそのままだった。正力氏は人心をつかまずには何もできないということが多少面恥しかったらしい。だから僕もそのことは誰にも洩らさずに今日になった。

 同氏の訃に接して今さらながら、当時の光景がマザマザと目に浮かぶ。正力氏とはその後、普通の新聞人同士の交際が続き、日本倶楽部の常連で良く議論を戦わせた。 (毎日新聞百年史=工場編=によると「政治部長から、東大出の岸井部長がきて、工員一人一人と面接、調査を進めたあと社で初の従業員就業規則をつくった。おそらく岸井部長の草案によるもの」と記されている)(つづく)

「正力松太郎氏との秘話」④

 販売部の人々があわただしい動きをしている。何事かと思っていると報告が来た(営業局次長当時)。読売の正力社長が暴漢に襲われ肩を切りつけられたという。「ヘエどうしたんだ」「いやそれが本社に出入りする熱田です」「エッどうしたんだ」「わかりません」「金をゆすり損ったのかな」。その日は不思議に思いながらそれ以上はわからなかった。 私の体は、いわゆる城戸事件以来(これはまた別の機会に書きつける)弱っていた。自分の思うような結果にならなかったことが健康を害したのだ。自分はもう日日新聞の復興に熱意を失っていた。吉武氏(鶴次郎専務兼営業局長)は異状に心痛の様子だった。当時の販売部長は丸中一保君(東大出)だった。

 同君は仕事に熱心で、日常の仕事には幾分誇張らしいところがあった。ところが、〇中君が突然姿ををくらました。しばらくは極秘が保たれていたが、だんだん新聞界でも事件の片りんが伝わるようになった。同君は正力刺傷事件のチンピラ暴力団に言葉の上で引込まれ、暴力団員は裁判所で「東日の丸中部長と相談しての上でやった」といったらしく、丸中君は数回、裁判所に呼ばれたのであった。これは新聞界としては大問題だ。

 東日に対する陰の誹謗は噴々たるものであつた。城戸事件以来、東日は姿勢の建直しに躍起の際、これは被るべからざる大きな傷である。自分も一回検事局に呼ばれた。吉武氏は当の責任者として矢面に立たされた。これは社内の高石、奥村、山田など反対勢力のこの上もない吉武攻撃の口実となり、社の内外は蜂の巣をつついたような混乱に陥った。

 丸中君はその責任に耐えかねて失踪したようだ。この失踪でまた、東日の示唆で正力刺傷があったということが事実となってしまい、遂に吉武氏の失脚となり、営業局長には山田潤二がなった。自分も当の責任者として冷飯の座に坐ったままとなった。丸中君はその後どうしても姿をみせず、数年後、伊豆半島の海岸の洞くつの中で自骨となって顕われた。全く気の毒であった。かくて正力氏の刺傷事件は、東日にとって、吉武、岸井退陣など土台をゆさぶる大問題の結果をもたらした。城戸事件、吉武事件、不思議なものである。何か一つの運命が連続して働いていたような感じだ。

 時々、鎌倉に出かけた汽車の中で正力氏と一緒になった。この事件については最後の出合いの時、僕から「いや熱田の事件はとんでもない濡衣でした。大変迷惑なことだが、事実、東日は何のかかわりもないことだった」。「イヤーそれは良くわかっている。マァ一つお互いに新聞界のために手を握って行きましょうや」といって両人の間では呵々大笑の話題にすぎなかった。それから後、時々汽車で会ったが熱田事件が話題になることはなかった。(つづく)

(福島 清)

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