随筆集

2021年6月28日

福島清さんの「岸井成格さんの父・寿郎さん」その9

 追悼集「岸井寿郎」には「正力松太郎氏との秘話」など5編の遺稿が掲載されています。激動の昭和時代に直面した出来事とさまざまな方々のお名前が出てきます。昭和史の一断面として貴重だと思います。

「正力松太郎氏との秘話」⑤

 僕が東日をやめてからは、日本倶楽部に顔を出すことが多くなった。正力氏は常連で、ほとんど倶楽部を自分の別事務所のように使っていた。岩田宙造、有馬忠三郎、原邦造等も碁の好敵手で、正力氏は顔をみると何をおいても「おい、岸井君一番」と、一番どころでない数番、互いに毒舌を楽しみながら闘う仲であった。そんな中で、陸軍の横暴は次第にこうじ、僕はかつがれて東条内閣の選挙に立候補して衆議院に出た。

 それからの時代は今度は日本そのものをひっくりかえして終戦を迎えた。追放の二重パソチをうけて働らくにも働けない。これから社会をどうリードしようもない。既に50の坂を越して今さら何をかいわんや。静かに余生を送ろう。それが当時の心境だった。日本倶楽部で碁仲間と談じている時、永野護君が「一寸」といって別室に連れていった。

 「岸井君、実は正力君が戦犯容疑で入獄している。同君の仕事および留守家族の一切のことは僕が託されている。君は報知新聞の再興をやりかけたぐらいだ。読売新聞を引受けてくれないか。丁度、今読売は共産主義者に占領されている。君ならやれる。家族も困っている。百万円あれば良い」という。「正力氏は出獄したら社に復帰したいだろう。その点はどうなる」「イヤ、それはそんなことはない。一切自分に一任されているのだから絶対に心配はない」「よし考えてみよう」といって別れた。

 僕は前述のように自分の活動は一切やめる決心をしていたが、友人の楢橋渡君は、今は時めいているが、当時彼はまだ自分の足場を持たない。自分はやる気はないが彼は何とか将来の足場を保持することが必要だと思ったので彼に話した。彼も即座に承知して、百万円つくるというのでこの旨、永野君に伝えた。永野君も喜んで、「いつでもきれいに引渡す」との約束もできた。しかし、楢橋君はなかなか金ができたといってこない。

 丁度弁護士会長の選挙があって立候補していた。遂に会長は不成功に終った。彼日く「読売の方は、弁護士会長選で金を使ってしまったからダメだ」。僕は非常に困った。永野君は正力氏の家族に伝えてあるだろう。困ったけれどそのままにしておくことはできない。その旨永野氏に話して断った。

 永野氏は「残念だな。家族の人々にもいいようがない」といって真に困惑の様子であった。その後、永野氏が、一、二度こぼしたことがあったのをみるとよほど困ったことだろう。かくて読売は引渡しの相手も現われず、正力氏が出獄するまで共産主義者の溜場のような有様で過ぎた。それは結局正力氏の再起の足場となった。社内のシコリをほぐすのに数年かかったが、例のエネルギッシュな活動で再び読売を自分の手に戻した。正力氏出獄後も、僕は永野君から身売りの話があったことは、どんなことになるかもしれないので、絶対正力氏にも他人にも一切話さずにしまった。(「正力松太郎氏との秘話」おわり)(つづく)

「知友の死に思う」①

 近頃は思いがけない時に思いがけない旧友知人の訃(ふ)を知らされる。生前関係の親疎によって受ける感じは様々だが、如何にも己が老齢を自覚させられるので心境は複雑である。

 「何れは自分もまた後程」といったような生半かな割り切り方で、さも故人に日頃無沙汰のお詑びでもなし得たかの様な心境で、自分自身を誤魔化して過ごすことの多い近頃である。

 「正力松太郎氏が熱海の病院で亡くなった」との訃が伝えられたのは去る10月10日のことであった。同君の入院療養中であることは前から知っていたし、また今度はどうも病気が重い様だとは関係筋では噂(うわさ)されていたことであったが、現実に「死んだ」と聞かされてはショックを受けた。が、所が熱海であり、その後の様子はわからず、後報を待った。「遺骸は逗子の自宅に引き取られたが、家族関係や事業関係が複雑で、門外の一旧友が罷(まか)り出る場ではなかった。私は生前の自分との接触を走馬灯の様に懐想しながら、同君の冥福 (めいふく)を祈ったのであった。

 越えて23日、まだ正力氏の墓の土も乾かぬ時、TBSの鹿倉吉次君が突如他界したとのことである。これは全く唐突であった。一カ月程前に故杉山幹君の回想パーティーで 顔を合せた時には健康そのもののような顔付で面白おかしく裏話に談興湧いたばかりである。私は自分の耳を 疑うが如く直に関係筋に問合わせたが、もちろん真実であった。取る物も取り敢えず自宅に駆けつけた時に、僧侶が読経していた。

 暫らくして僧侶が別室に退いた時、やっとそのままになっていた病室に入って同君の仏顔に対面した。顔は生前の顔そのままで、少しも苦しんだ跡はなく、今にも物を言い出すかと思われる程であった。聞けば大阪旅行でサンザン、ゴルフをやり、麻雀もやり、元気一杯で帰ったばかりの夜、突如心不全で他界したとのこと。もちろん遺言もなければ病床の言葉らしい言葉一つないのであった。

 両君は現代マスコミ界の両雄であった。互に時には辛辣(しんらつ)な批判を交わし合うが、内心では畏敬しあっている好ライバルであった。正力氏は次々と新しい企画を事業上に盛り、善悪はとに角、常に斯界の尖端を突走らなくては気の済まぬ男であった。虎之門事件で官界の足を洗い、新聞界に飛込んだ経歴が示す通りの働き振り。一方、鹿倉君は新聞社時代の長い下積生活を堪え忍び、一度逆境を脱するや着々とその基盤を築き、時到るや民放に転進し、民放界の第一人者として動かざる地位を固めた。

 両氏はその人生行路でも面白いコントラストを示していた。正力君亡き後の民放の行方など、機会あれば鹿倉君に聴きたいテーマであったが、その機さえも与えず、ソソクサと彼は正力君の後を追うが如く、この世を去ってしまつた。両氏共に84歳、死因は共に心不全。何という暗合か? マスコミの一角に繰り広げられた両氏の競演も、もう見られなくなったのは淋しい。(つづく)

「知友の死に思う」②

 古来、人類は何れの民族も人間の「生と死」という解き難き謎を解かんと苦しみ悩んだ。しかしアラビアンナイトの魔神でも連れて来ないでは、一旦死んだ人間を再び戻し、死の真相を確認することは出来ない。それは科学以前の問題であり、宗教の世界である。聖人といい、誓人といい、あるいは教祖と崇(あが)められる人々が、如何にも解答らしい教理を説いても、結局は本人の信仰如何による外はなかった。だからマホメツトの様に左右の手にコーランと剣を持って民衆を引廻さねばおさまらぬお節介さえ出て来たのが人間の歴史である。

 所詮(しょせん)人間自身が解決し得るのではな<大自然の力のまにまに人間は流されて行く。ただ人間には自殺という自由が許されているが、それも煎じつめれば死に方に尽きる。だから多くの人は最後の時を予想して「自分はこうして死にたいという感懐を洩(も)らす人があるが、それもただ希望に過ぎない。身近な所を考えてみても毎日新聞の創始者の一人本山彦一氏は「自分は死ぬまで仕事をしたい。死ぬ時は仕事をしながら死ねぬものか」と洩らしていた。鹿倉君も「死ぬ時は突然コロリと死にたいものだネ」と。正力君は病 院で主治医の注射を受けると手を振って「アアもうこれで良い。これから東京へ帰るんだ」といいつつ息を引き取ったとのこと。

 現代の英雄として仰がれる英国のチャーチル氏は晩年、友人や待医から養生法などの説教を聞いていたが遂に「もう生きるのが面倒臭くなった」という言葉を残して他界した。 今私がこんなことを書いている間にも、運命に反抗し自らその生命を断っている人間が何人かいるであろう。自殺は人間の特権であろうか。後期ローマ帝国のハドリアヌス皇帝は衰頽(すいたい)したローマ帝国を再び地中海全域に君臨する大帝国に再建した賢帝として誉高い名君主であったが、晩年病気に悩まされた。帝は病苦に堪えかねて遂に自殺を決意し、側近に仕える奴隷(どれい)に殺してくれと頼んだら、奴隷は逃げて行方をくらました。

 今度は侍医に毒薬を飲ませろと迫ったら、侍医自身が自殺してしまった。帝は遂に自ら死ぬ以外に途はないと悟って、やっと短剣を見つけ出し、将(まさ)に自刃(じじん)せんとする時、側近に取押えられて短剣をもぎとられてしまった。帝嘆じて曰(いわ)く『誰でも死刑にすることが出来る自分が、自分自身の生命を断つことが出来ぬとは何事か』と悲しんだ。そして宮中を逃げ出して餓死に等しい生活でやっと自分に終止符を打ったという。自殺さえも出来ない人はハドリアヌス帝だけではあるまい。

 今は科学の時代だという。然り。これを肯定するに吝(やぶさか)ではない。しかし人間の『生と死』は科学の力を以ってしても如何ともすることの出来ない永久の謎であり、神秘である。若い時代の友人達と人生間題を口角泡(あわ)を飛ばして論議した時代は、それは一種の思想的遊戯であった様だ。近頃はそれが具体性を持って自分独りで考えるようになったのは、単に脳細胞の狂いだろうか。

 ああ、弱き者よ汝の名は人間。 

(昭和44年10月26日付。東京ポスト「山の手日記」より転載)(つづく)

「日記より」①昭和36年4月10日

 今日は婦人の日だそうだ。女の日ということだろう。男の日、女の日、一体何を意味するのか。近頃しきりに政界でも休日増加を論じている。働く者の心は彼等にはどうもわからないらしい。日本民族の将来のためスバラシイ政策を樹立する人はいないものか。思切って年500億位を投じて海外移民を促進するような政治家がほしい。
昭和36年5月18日

 梅雨近くなって毎日どんよりした天気が続くが、今日は珍しく天気が良い。5時10分に起きたら巍次が早起きして雨戸は開け放たれている。庭木を廻ってみるに梅は実がドッサり付いている。梅の下のバラが沢山蕾を持ち、7、8個咲いている。うすい赤色が目覚めるように美しい。一枝を切って鏡の前に投入れる。奇麗だ。昼食後、ベランダにいると慶子がとんできて鉢のザクロを指し、「ご覧なさい。今年は沢山花をつけますよ。小さい花の誉が小さな枝にビッシリです」「エッ?本当か」。よくよく見れば、蕾が一杯だ。僅か内径一尺立方程の鉢の木がそんなに花を咲かせるとは驚いた。今見る限りでも3,40は咲くだろう。4月初め頃から毎朝、ミルクのビン底に残ったのを集めて、薄めて君子蘭とザクロにかけていたためだろう。ミルクが肥料に良いことが証明せられた。これは面白いと思わず叫んだ。花の咲く日を待ちわびる。(つづく)

「日記より」②昭和36年5月28日①

 慶子が忙しく数日間「富士屋」へ往復してパーティーの準備を進めていたが、いよいよ当日が来た。何だか自分のことだか他人のことだかわからぬような気持ち。「和服にしますか、洋服ですか」との質問にも確答しなかったが、いよいよでかける時に社交服と決めてでかけた。

 会場は3階、全階を提供してくれたので本当の水入らずだ。生花もきれいにできてすがすがしい気持。慶子が開会の辞を述べ、岩田君が祝辞。そして僕が70歳のあいさつ。

 人間七十古来稀なり。日本人は明治に入って西欧思想が受け入れられる前は、思想といえば論語であり孟子であった。孔子の説も色々批判すべきであるが、とにかく東洋の大思想家であり、政治学者であり、倫理学者であり大したものだ。今から孔子や孟子の時代を振返って想像してみれば、当時の人が70歳まで生命を保つということがどんなにむずかしいことか。当時から人生50年といわれている。孔子も「我十有五而志学」といってから50にして天命を知ると人生の完成を50で区切っている。すなわち、50まで生きれば天寿を全うしたものであり、なすべきことは50までに仕上げなければならぬと思ったのであろう。人間完成後、なお20年生きのびるのが古稀だ。古来稀なりも無理からぬ。

 これに自分が達したことを思うと何とたわいのないことかとしみじみ感じる。ただ平々凡々と仕事をしたようにみえるが、何もしなかったといっても良い。しかし、何をして何になる。何もしなかったからといってどうということもできない。ある者は人生を虚無と断じ、ある者は人生を苦悩の世界と断じ、ある者はドラマと感じ、ある者は笑劇と断じている。しかし何者が普遍的結論を下し得たろうか。結局人生不可解と諦観に逃避するのがオチである。

 自分も心づいてから、人生問題をはじめ、各種の思想問題にひき入れられてきたが、結局、何ものにも達せず、現実の環境に迫られて馬車馬のごとく働いてきた。ある時は文学者になろうと考え、ある時は思想家を志し、ある時は政治家たらんとし、ある時は財界にも幾多の変遷をたどっている間に人生完成の50年は全く夢のごとくに過ぎ、さらに古稀を迎えるにいたった。

 静かに考えてみると、あまり経済的苦しみもなく、したいことをして晩年を迎えることは全く幸福と感ぜざるを得ない。今自分がすべて快よく感じることは他人を深刻に苦しめることなく過ぎたことである。今日の自分を仇敵視するものはまずない。また大きな財産を持たぬ身としては身辺のものから死後、相続関係から、自分の死を早かれとひそかに思っているものもないはずである。最近独立した岩田君は八面六臀というか、一人十役の活躍で、すでに困難な広告界の中堅にのしあがり活躍している。年わずか35歳である。(つづく)

「日記より」③昭和36年5月28日② 

 自分は東条時代に逮捕され、株殺されるかもしれなかった身である。敗戦後は追放されたが同僚や友人たちが、追放解除にやっきとなって運動しているのを見て「お気の毒な人たち」としてみていた。時に成格一才、巍次は生まれたばかり、もはや、政界にも志を断ったが、せめて文筆だけは捨てずに、本当の声を世に出してやろうと報知新聞再興を志し、スタートしたが、追放の追いうちでオジャンになった。

 爾来、晩年を静かに後輩および子供らのために陰のアドバイザーとして世を送る決心をした。その時の報知再興の志望の時、宅の門を叩いて秘書となったのが岩田君である。丁度16年前、君19歳の時だ。今となってはほとんど自分の分身のごとき交際が続いている。その岩田君が一城の主としてデビューするのをみたい。また、幼いといっても高校だから少年から青年の間に入ろうとする成格、巍次の社会にデビューするのもみたい。

 先日、大平官房長官の就任祝賀会があった。それまで一度もこのような選挙区関係の会合には顔を出さなかったが、もはや、選挙区の形勢も定まっている今日、今までの自分の心境の一端を発表するものも無駄であるまいと思って出席した。

 その時、宴の始まらぬ前に、世話人から「岸井先生一同を代表して祝辞を述べて下さい」との依頼があったので立った。

 「大平君が官房長官に就任したのは郷里の喜びであり誇りである。どうか今後とも研鑽して国家のために働いてもらいたい。本日一同を代表してあいさつするのは、私より他に適当な人が沢山あると思うが。世話人の指名もあるので一言お祝いを申上げるとともに私の心境をチョッと申上げたい。大平君は中学の後輩であり、世間では私が相当手を貸していると思うだろうが、私は追放以来、追放解除のためGHQに運動するのは一切やらなかった。政治には志を捨てて、静かに晩年を送るつもりでいた。選挙ごとに郷里の候補者から、助勢を頼まれた。大平君自身は頼んでこなかったが、関係者からは度々あった。しかし、私は追放をうけた身が未練がましく選挙運動に顔を出すことを嫌い、一切何者にも応援はせず、いずれは誰かが選挙区を掌握するであろう。力がないものが出てもいつかは没落する。形勢は自然に定まる。かえりみないのが人材の胎頭を促す由所と考えたからだ。だから、大平君も決して私と親密な間柄ではない。むしろ非常に疎遠な人である。しかし長いこと苦闘の甲斐あって官房長官という内閣の大番頭になったのだからめでたい。選挙区もどうやら定まったらしい。一面からいえば後輩の待ちわびた形勢である。その意味からも大いにめでたいとお祝いを申上げる。ただ一言、最近の新聞などでみると池田首相の言動に対して、大平君は神経質すぎる。政治家でもトップクラスになると公私を問わずその人の裸の姿がありのまま出てくるものだ。周囲でいくら心配してもその人の持味はまるだしになるものなので、池田首相がそのために失脚することがあっても大平君が、自分の心づくしが足らぬと考えることはない。最善を尽すのは良いが、そのために健康まで害することだろうから、ただ一言、これだけのことをお祝いの辞に添えておく」といった。(つづく)

「日記より」④昭和36年5月28日③

 その言葉は大平君のためでもあり、自分の立場を表明するためでもあった。僕が追放された時には自分のあとに推せんするだけの人物がなかった。また推せんして苦労させても受け入れ態勢ができていない人間には仇になる。少なくとも代議士として立つには相当な人間でなければならぬ。力足りぬ人を推せんすることは個人的にも社会的にも罪悪である。 孔子の「小人は養いがたし」は実に味わいのある処世哲学である。人間は良き説を聞かんをするものはまず自らの受け入れ態勢を養わねばならぬ。いかに貴重な言葉といえども受け入れ態勢のできていないものには大きな仇となる。

 ようするに善も悪も貧困も、みな自分の修養の一程度によってわかれていく。一にも修養、二にも修養である。今日の会合は自分より、後輩ばかり、しかも親子、孫程度の人ばかり。結局、今言った言葉もとりよう一つで善し悪し、正邪いずれともなるであろう。私は自分の一生をかえりみて前述のように怨恨をかまえたと思われる人もない。財産的に損害をかけたこともない。また貧困にあえいだこともない。失意に没入したこともない。良き一生を送ってきたと思う。しかも現在は最も安定した時である。

 この時、古稀を迎えるのは幸福だ。それに少し言いがたいことであるが、妻は非常に料理が上手だ。今、自分は外出して他の料理を食うよりも、自宅の料理の方が上等だ。外に出て食いたいと思うのはうなぎ、ふぐ、スッポンだけだ。この意味でもかような環境であることは晩年の自分は幸福だと感じている。あまりほめていると妻の鼻が高くなりすぎるので、この辺でよすが、ただ気がかりなのは子供がだんだん料理に敏感になることだ。料理に敏感だと、人間は憶病になることがある。またチョッとしたことのために健康を害することがある。同じ一家で暮している子供とはいえ、別料理を食わせるわけにもいかぬ。それで時々問題をおこすことがあるぐらいで、これも幸福すぎる現象である。今後、妻がさらに老人食に上達してくれると、あるいは岩田君のあいさつにあったように、ますます長命するかもしれない。あまりいっているとおのろけになってもいけない。皆さん集まってくれてありがとう。今後おたがいに幸福に暮らそう。(つづく)

(福島 清)

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