随筆集

2021年7月2日

福島清さんの「岸井成格さんの父・寿郎さん」その10(終わり)

 追悼集「岸井寿郎」には「正力松太郎氏との秘話」など5編の遺稿が掲載されています。激動の昭和時代に直面した出来事とさまざまな方々のお名前が出てきます。

「日記より」⑤昭和36年7月1日

 午後、成格(当時高校2年)が友人の吉田昌光と同道で帰ってきた。只ならぬ気配に、大きな荷物をかかえて応接に入って来た。昨夜は10時すぎにやっとスピーチコンテストの原稿が出来上った状態では、励ましのため「一位間違いない」といったものの、とうてい入賞するとは思わなかったので、何事かと瞳をこらすと、いきなり「どうです」という。「入賞か?」「しかも優勝です」「ヘエー、それは大出来だ」と答えて、じっと顔をみる。「ここ1カ月めっきりやせたと思われる顔に精悍の気をたぎらせて「まだ夢のようです」と優勝当時の状況を説明する。番外から始まった入賞発表が2位まできた時はガックリして、外に出て風にでもあたりたいと思ったトタン名前を呼ばれ、一瞬何のことかわからなかったとのこと。

昭和36年7月2日

 成格、巍次を連れて日本橋の「橋本」へうなぎを食いに行く。成格は昨日の興奮が残っているようだ。それに疲れがアリアリと顔にみられる。うなぎでも食わせて回復させるほかない。それにつけても「お祝いにビールを飲ませてほしい」というのでやむなく承知した。良くないことだが折角の勝利の日だ仕方がない。しかし、咳がひどいようだ。若い者は健康の持ち方を知らないから、コンテストに夢中になって身体中がコッたのだろう。アンマが一番良いんだが、だるくてやってやる気がしない。

昭和36年7月29日

 午後4時すぎても32度。何という暑さか。印度人が40―50度の中で暮らすというのがどうにも考えられない。人間という奴はどんな所でも食さえあれば住むものらしい。しかも人類史上、最も早く開けたのは暑い印度や、中近東にアフリカだった。やはり身に一糸もまとわない生活でなければ成立しなかった原始時代を想像すれば酷暑地帯が最初というのもうなずける。ダーウィンが人類の発生をアフリカと言い、“ミッシングリンク”を予言した事はさすがに大思想家、大研究家として観測に誤りなかったことに頭が下がる。今後、人類の古い歴史が開かれてくれば数々の面白い事実が発見せられ、また想像せられるであろう。自分存命中にはこのような興味ある書物が出るとは考えられぬが、今後の人は楽しみだ

昭和36年8月7日

 連日の降雨ですごしやすくなった。午後1時27度。今年は大変な豊作であろう。6年続きの豊作で天下は泰平。金さえあれば何でも手に入る時代が来た。世の人は血まなこになって金を追い右往左往するだろう。それも困る。成格が何か教育問題で悩んでいるようだが、近いうちに言いきかせなくてはならない。中、高校時代、誤まらずに進ませるには、親がつききりでみてやらねばならぬ。早くそういう時期が過ぎてもらいたいものだ。

昭和36年8月8日

 立秋、自唱して嬉しい。今年の暑さにはほとほと参った。これからは一日一日と涼しく美事な果実が得られる。立秋には文人の遺文が多いが、一種の喜びの中に寂しさがつきまとうのはどういうわけか。読書のシーズンであり、馬肥ゆる季節で、人もまた肥える嬉しい時期でありながら、これを賛美する喜びの文章は少なく淋しさがいつもつきまとう。草木の何となく衰えるサマが人生の終盤を想起せしめるためだろう。人間はいつまでも生きたいのが本心であってみればやむをえない。しかし、名文の書き手が若い人であったうえとは違った遺文が多くなったかもしれぬ。しみじみとする文章は若い者には書けない。(つづく)

昭和39年5月28日

 古稀の祝のことを想い出す。あれからもう2年になる。今日また73歳の誕生日のため大井クラブで例の近親の連中を集めて一席をすごすことにする。あいさつをする。

 僕の誕生祝を諸君とともにするのはこれで3回目である。あの時と今日とで満2年になるが、どんなに変化したであろうか。イヤ余り変っていない。一面から言えばみんなに大きな変動がなかった証拠である。昔は正月が全国民の誕生祝であって僕の郷里では誕生祝は生まれた翌年のその日にやるだけでやらなかった。だからバースデーというのは、どうもピンとこない。白人社会はとくにこの日を重んずるらしいので例の日本人の物真似で近頃大変盛んである。悪いことではない。祝いたく祝えるものは祝うが良い。一休禅師だと思うが、「門松や冥土の旅の一里塚、めでたくもありめでたくもなし」と詠んでいる

 正月が全国民のバースデーに相当(年がわりする)する慣習の中で住んだものの本当の心境であろう。若き者は喜びにあふれ、老いたるものは一里塚のいよいよ終末に近づけると思って各々異った心境で新年を迎えるであろう。小生も一里塚が73を数える。

 昨日、ネール・インド首相が突如他界した。マスコミは一斉に大騒ぎの報道である。74歳だそうだ。僕の来年だ。何ものも逃がれることのできない瞬間がきたのだ。僕にもいつそれがくるかもしれないと思うと、しみじみと「めでたくもあり、めでたくもなし」である。

 ただ今日、最も近しいみんなが、一堂に会して会食し近況を語り合うことは、誕生日であろうとなかろうと良いことに違いないとの意味で、今席の集りも意義がある。みわたす限り、みんな丈夫で結構。生活も一日一日進歩安定していく様子で結構である。

 昔、僕が新聞社にいたころ、時のトップクラスの財界人で藤原銀次郎と製紙界に覇を争うていた大川平三郎という人があって、藤原氏のむこうを張って富士製紙を持っていた。それが古稀の祝いか、還暦の祝いであったか、帝国ホテルの大部分を借り切って大盤振る舞いの大宴を催した。当時は小生も思想的にも生活的にも余リピンとこないで「バカバカしい催しだ、実業家というものは妙なところに喜びを持つものだ」と冷笑をもって列席したことがある。今から30年以上も前のことである。

 それから間もなく王子に合併せられ、製紙の天下は藤原のものとなった。爾来、製紙界といわず財界においても藤原の声望はますます上ったが、藤原氏はいつかな王子を去ろうとはしない。社内は人事の行詰りで窒息しそうな空気であった。いたずらっ子の小生が、太平洋石油株式会社を創立して藤原氏をかつぎ上げて藤原氏を王子から去らしめたものだ。当時の500円の会社で、今の金で20か30億円の会社である。僕にも創立者として中心の一人としてやってもらいたいという話であったが、関係者の大部分を役員に入れてもらうことを条件にして私は役員にはならなかった。

 話をすれば大変長くなるので略すが、それから幾変遷、王子製紙は財閥解体、独禁法のため沢山の製紙会社にわかれてしまった。とにかく変化の激しい時代に生きてきた小生のごときは語れば尽きるところのないほどの激動と興亡の試練を経てきた。その結果は碌として73歳の誕生を迎えることになった。

 先日、交詢社で久し振りに岸田幸雄氏(元兵庫県知事)に会った。色々懐旧の話の末に岸田曰く「君は我々同窓中では、最も活動的な男であったが、結局これというものを握らなかったネ」といった。これは少々小生を椰楡したものであったろう。「つかむというのは何だネ? 俺は天下をつかもうとしたができなかっただけだ。君は何かつかんだかネ」彼黙す。「参議院でもつかんだつもりか。イヤ、君は金を、それも僕がいえば小金をつかんだのだろうが、金は金でいつまでいっても金だ。大小はあってもネ。それも社会を左右するほどのものならともかく、ただ生活が派手にやれるほどのものじゃないか。五十歩百歩だよ。マァーお互いにゴールに近寄っただけのことだ」。(「日記より」おわり)

 「追悼集」には、告別式の写真をはじめ、三豊中、三高時代から成格さんのお宮参り、軽井沢時代、そして最後に一家の写真が掲載されています。その一部を紹介します。

・成格さんお宮参りの日。昭和19(1944)年の衆議院議員時代(玉川用賀自宅)
・軽井沢の鬼押し出しにて
・成格さん英語スピーチ優勝を記念して(昭和36年7月)
・大井の自宅にて

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【岸井成格さんの父・寿郎さん=番外】

 長い紹介になりました。読み直しながらフェイスブックに連載して、何とも言えない爽やかな気持ちに浸っています。それはこの追悼集をいただいた30年ほど前にくらべて、世の中が殺伐としているからだと思います。とりわけ、安倍・菅二代政権の下で続く政治の現状の下で。そして人間どう生きるべきか、政治・事業はいかにあるべきか等々について、改めて目を開かせられた思いです。

 この端正な追悼集には、序文もあとがきも奥付もありません。編集・発行された方のお名前もありません。「岸井寿郎さんと家族について、最低限伝えておきたいことを記しておく。読むも自由、読まぬも自由だ」と考えたのでしょうか。

 岸井寿郎さん 1891年5月28日生、1970年10月1日没。79歳。岸井成格さん 1944年9月22日生、2018年5月15日没。73歳。

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 2015年に頂いた年賀状が最後でした。2017年暮れには、弟・巍次さん(71歳)、甥・大太郎さん(62歳)永眠の喪中はがきが届きました。

 岸井成格さんは、父・寿郎さんの精神を受けついで生き抜いたのだと思います。それだけに、73歳という若さで亡くなられたことは残念でなりません。

 岸井さんを知る毎日新聞のみなさんが中心になって、岸井さん父子の生きざまを世の中に知らせる本を出版してほしいと思います。

 2018年6月3日付サンデー毎日に掲載された倉重篤郎さんと佐高信さんの岸井成格さんへの追悼文を紹介しておわります。

(福島 清)

※福島清さんのフェイスブックは

https://www.facebook.com/kiyoshi.fukushima.102