2021年7月19日
一日駅長で展望車に乗ってしまった百閒センセイ
酒井順子著『鉄道無常 内田百閒と宮脇俊三を読む』(角川書店)に、百閒センセイ(当時63歳)が東京駅の一日駅長を務めたときのことが書かれている。
制服・制帽で東京駅へ現れ、一日名誉駅長の辞令を受けた。駅構内を視察したあと、12時30分発の第3特別急行列車「はと」が発車する際、「出発進行」の合図を出すハズだった。
ところが百閒センセイ、発車間際に最後部展望車の展望デッキに乗ってしまったのだ。
列車は、そのまま発車、百閒センセイは熱海まで乗車したという。
「なんにも用事がないけれど、汽車に乗って大阪へ行って来ようと思う」
というセンセイだけのことはある。
同行したヒマラヤ山系こと平山三郎さん(国鉄職員)には事前にこの計画を話していたようだ。
ネットで検索すると、新潮文庫の表紙に、そのときの写真が載っている。
1952(昭和27)年10月15日。一日駅長は、国鉄の80周年記念イベントだった。
東京駅は百閒センセイ、新宿駅は毎日新聞OBで当時政治評論家・阿部真之助(元大阪毎日社会部長、東京日日政治部長、学芸部長を歴任。その後NHK会長)、上野駅は元日経新聞の経済評論家・小汀利得、渋谷駅は歌手の藤山一郎、有楽町駅も歌手の越路吹雪…。
多彩である。国鉄が黒字経営の時代だった。
図書館で毎日新聞の紙面を検索すると、その日15日の夕刊社会面に「有名人が一日駅長」という見出しで載っていた。四ツ谷駅では荒木町花街のキレイどころ7人が改札に並び、「(切符に)ハサミを入れるかたわら、乗降客に香水をシュッシュッとふりかけるというサービスぶり」。写真付きだ。
写真はもう1枚。有楽町駅の越路吹雪で、見出しは「訓示早々コンパクト」。コーちゃんは、遅刻したらしく、訓示の後、「早速コンパクトを取り出し、女駅長のみだしなみとばかり、軽くお化粧をして構内視察を行った」。
今から69年前である。鉄道開通は、1872(明治5)年。毎日新聞は同じ年の2月21日創刊だから、鉄道とともに、来年150年周年を迎える。
さて、酒井さんの著書にあるもうひとりの鉄道作家・宮脇俊三さんも、取手駅で一日駅長をしている。1985(昭和60)年、58歳の時だった。
楽しみにしていたのは「酔いつぶれた客を揺り起こしたい」。
「取手です。終点ですよ」。降りていく客を眺め、達成感を覚えた宮脇は「胸を張って駅長室へ引き揚げた」のだった、と酒井さんは書いている。
「鉄道の『時刻表』にも、愛読者がいる」
鉄道全線完乗車・宮脇俊三さんの名言である。
(堤 哲)