随筆集

2021年8月10日

漫画家、サトウサンペイさんを発掘した「夕刊新大阪」小谷正一さん

 ——作家や画家などの若い頃の作品を「若書き」といい、勢いを感じさせるものが多い。サトウサンペイさんの場合、入社試験の履歴書を漫画で描いたというから、相当な大胆さである▼産声をあげた頃、そして戦中戦後の自分を絵にして、短い文も添えた。面白い奴(やつ)だという重役もいて、百貨店に採用され宣伝部で働き始めた。さらにはその話を聞きつけた夕刊紙の幹部から、うちで描かないかと誘われた▼そうやって漫画家サトウサンペイが生まれた…

 8月7日付朝日新聞朝刊1面「天声人語」である。

 サトウサンペイさん(7月31日逝去、91歳)が漫画家となるきっかけを作った「夕刊紙の幹部」とは、元毎日新聞の記者・小谷正一さん(1992年没、80歳)である。

 小谷さんのことは、この毎友会HP追悼録(2021年7月15日)で天才ヴァイオリニスト・辻久子さん(ことし7月13日没、95歳)を売り出した伝説のイベントプロデューサーとして取り上げた。

 小谷さんが亡くなって1年後に開かれた偲ぶ会には、辻久子さんも、サトウサンペイさんも参加している。

 夕刊紙とは、1946(昭和21)年2月4日に創刊した「夕刊新大阪」である。GHQ(連合国軍総司令部)が新聞用紙の割り当てを管理、毎日新聞、朝日新聞は朝刊2ページしか発行できなかった。一方で新たに創刊する新聞には用紙を割り当てたことから、各社とも系列の夕刊紙を発行した。「夕刊新大阪」は、毎日新聞大阪本社内に編集局を置き、印刷も毎日本社で行った、と『毎日新聞百年史』にある。

 創刊当時のスタッフは、編集局長・黒崎貞治郎、編集総務兼報道部長・後藤基治、整理兼企画部長・小谷正一ら。毎日新聞から出向した。

 朝日新聞は「大阪日日新聞」、産経新聞は「大阪新聞」を系列紙とした。

 「夕刊新大阪」創刊からのことを書いたノンフィクション、足立巻一著『夕刊流星号』(新潮社1981年刊)を紹介した記事を見つけた。

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1981年11月20日付毎日新聞夕刊

 1981年11月20日付毎日新聞夕刊で、筆者は、当時編集委員の四方洋さん(2016年没、80歳)である。

 記事の中に、サトウサンペイさんの漫画を連載する経緯もある。

 《小谷さんのところへ大丸(百貨店)の宣伝部員が遊びに来た。「おもろい人間おらんのかい」「リレキ書をマンガで書いた新入社員がおります」「それ、つれてきてくれ」。男がやってきた。「連載やらんか」。シリごみするのを描かせた。第一回は「飛行機から宣伝ビラをまいたら、海の中へ落ちる。デパートで大売り出しの日、やってきたのはサカナばっかりだった。小谷さんは四コママンガを見て腹をかかえて笑った》

 井上靖は小説『闘牛』で芥川賞を受賞したが、そのモデルは「夕刊新大阪」の小谷正一さんである。

 この闘牛大会は小谷さんが企画した。毎日新聞入社同期の井上靖は、このイベントに興味を持って、小谷さんから取材をした。

 毎日新聞1950年2月2日朝刊に井上靖が「『闘牛』について」を寄稿している。

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1947年1月14日付「夕刊新大阪」社告

 《廿二年一月新大阪新聞社主催で闘牛大会が西宮球場で開かれた。…一日私も闘牛見物に会場に出掛けた。みぞれの降る寒い日だった。天候に祟られてその日の入場者は極めて少なかった。リングの中央で、角を突き合せたなりで微動だにせぬ二頭の牛。それを取巻くまばらな観客。垂れ下がっているのぼり。スタンドの所々から人々は外とうのえりを立てて、声もなくリングを見降ろしている。その会場に立ちこめている異様な空気が私の心に冷たく突き上げて来た》

 《この闘牛大会は新聞社の事業としては宣伝効果からしても大きな成功をおさめ新大阪はために盛名を天下にとどろかした》

 「夕刊新大阪」は、復刻版が不二出版から刊行されている。足立巻一さんが提供して兵庫県立図書館が所蔵しているものだ。

(堤  哲)