随筆集

2021年8月13日

思い出すままにーー森 桂さんの「つれづれ抄」①

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 僕はいま病院にいる。狭心症の発作を起こし手術をしたが、その際に細菌が体中を巡り、四十度近い高熱に見舞われて長期の療養を強いられているのだ。いい機会だ、頭がしっかりしているうちに、めぐりあった人たちの思い出をしたためてみよう。しばらくご辛抱を――

麻子

 いまでは懐かしくなったドーナツ盤が、勇ましい軍歌を奏でていた。昭和五十年だったと思う。銀座七丁目のバー「麻」。戦後の爪痕が残ってはいないが、そんな雰囲気が漂う。小部屋のような空間には、客が訪れることは少ない。エレベーターのない寒々とした四階まで登って来る呑兵衛はめっきり少なくなっていたからだ。

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安岡章太郎さん

 「異国の丘」「軍艦行進曲」「ラバウル小唄」……ドーナツ盤から勇ましい軍歌が流れる。すぐそばでママの麻子はへぼ将棋をしているのだ。お相手は作家の安岡章太郎さん。軍歌が途切れる。「ほら森、次の曲、次の曲」。聞いていないと思ったら、ちゃんと聞いている。将棋を打つ乾いた音が続く。すると今度は「先生に氷を入れて、薄く注ぎ足して」。商売も忘れていない。

 麻子は気仙沼育ち。半農半漁の家で細々と暮らしをたてていた。東京に憧れ中学を卒業してから上京。銀座の高級クラブのホステスにたどり着く。その間にどんな苦労があったか、彼女は多くを語らなかった。こちらも、何か聞いてはならない気がして聞かなかった。

 好景気に沸いていたころのクラブは、金持ちの社交場だった。客を相手にするホステスはほとんどが大金持ちになった。そこに大作家が加わった。編集者との打ち合わせはクラブが舞台となっていたから。作家もクラブで働く彼女たちの生きざまを描く。川口松太郎の小説「夜の蝶」はその代表だろうか。

 

 麻子は文学少女だった。読書量の多さが会話の中でうかがわれた。「麻」は、客が歳を取り、四階まで登って来られなくなったので、二十数年の歴史に幕を閉じた、その後、以前いたクラブの名をとって駒込に小さな店を開いた。何度か顔を出したが、往年の面影はなく客層も変わって、足は遠のいてしまった。

 十数年たって、三笠会館で開かれた「久保田万太郎さんをしのぶ会」の集まりで、安岡さんにお目にかかった時、「麻子」の話が出た。安岡さんは、つい昨日のように「懐かしいな」と目を細めておられた。しゃがれ声だった麻子。どこで余生を送っているだろうか。

「アンダンテ」

 新宿ゴールデン街のはずれにあった。馬蹄型のテーブルに、七、八人も座れば満席となる。秩父の山奥から取り寄せたという、透き通った氷がカウンター越しにみなぎっている。いつも満員で二、三十分も立ち飲みしなければ座れないことも。

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佐藤陽子さん

 店の名は「アンダンテ」。ママは、なっちゃん。女子大を卒業したばかりの姿で客をあしらう。アンダンテで頭に浮かぶのはモーツアルトの、「フルートのためのアンダンテ」。なっちゃんにそのことを聞くと「私も好きよ」と認め、大いに盛り上がった。

 

 常連客は多彩だ。当時は挿絵画家で知られ、後に小説や随筆をも書くようになった司修さん。大柄の体を持て余すように、にこにこと話に耳を傾けている。ヴァイオリニストの佐藤陽子さんも名器を持って、ちょくちょく訪れた。その日も佐藤さんに「ベートーベンのヴァイオリン・ソナタのうちで何が一番好きですか」と伺うと、「七番」と即座に答え、ケースから楽器を取り出して弾こうとするので、聞きたかったけれどもご遠慮していただいた。

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冨士眞奈美さん

 冨士眞奈美さんもその一人。彼女が入って来ると、その場が華やぐ。世間話に興がのったころ、なっちゃんが「冨士さん、お嬢ちゃんから電話」と伝える。冨士さんは「じゃすぐに帰るからね」と言って電話を切り、「宿題が判らないから教えて、と言っているので家に戻るけど、その話、続けておいてね」と言って姿を消した。彼女はもう夜が白みかけたころに話に加わったが、さっきの話はとっくに終わって次に移っていた。

 「アンダンテ」には、家族のような空気が流れて、時間に追われる仕事に携わっている身にとっては、ほっとする瞬間があった。いまでも、その光景を思い浮かべるのである。

 冨士さんの秀作。

  海底のやうに昏れゆき梅雨の月
  まず足の指より洗ふ長き夜

 もう、お仕舞にしようかと話し合っている時、ふらりと男性が現れた。どこかで見た人だ。「あら先生、お久しぶり」。なっちゃんが手を止めて、客を招き入れる。すぐに、その人は作家の野間宏さんだと分かった。野間さんの名は知っているけれど、代表作の一つ「真空地帯」しか読んでいない。それもかなり苦労して。人間を非人間的な兵士に変えてゆく、旧軍隊と戦争の本質を問う作品ぐらいしか知識はない。

 客は僕のほかは、一組のカップルしかいない。なっちゃんと手伝いの妹さんは明日の準備と跡かたづけで手いっぱいだ。僕は父が新聞記者だったこと、大本営は戦争犯罪を隠し通し、国民を欺いた実相を暴いた「旋風二十年」という単行本が、戦後初のベストセラーになったことなどを懸命で話した。野間さんは父の名前をご存じで、じっと前を見つめながら聞いてくださっていた。

 話が途切れた時、野間さんは「もう一軒行きましょうか」とおっしゃる。夜更けである。空いている店はあるのだろうか、心配になったが、その店は馴染みらしく照明を点けてわれわれを招じてくれた。小一時間経ってお勘定となった。野間さんはゆっくりと内ポケットに手を入れ財布を探している。そのとたん、背後で「財布を忘れた」という静かな声がした。僕はその日はちょうど給料日で、決して安くはないお勘定を支払った。

 数週間たって「アンダンテ」に立ち寄ったら、野間さんの姿があった。連日のように僕を待っておられたそうだ。(つづく) 

(森 桂)

※森 桂さんは昭和16年10月東京生まれ、41年4月、東京本社入社。横浜支局、宇都宮支局、外信部、社会部、学生新聞編集部、事業部を歴任。平成7年9月 東京本社文化報道センタ―編集委員で退職。