随筆集

2021年8月18日

吉田ハムさんがガリ版を切った同人誌「五番線」創刊号

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 経済評論家・鈴田敦之さんが連絡部時代の先輩・吉田公一さん(2021年7月12日逝去98歳)を偲んだ追悼録。同人誌「五番線」の詳細が吉田勉編著『新章九十年史』(自費出版1989年刊)にあった。

  昭和26年6月9日―電話通信課同人誌『五番線』創刊号発刊。

  「どうやら誕生のうぶ声を挙げ得たということを皆様と共に喜びたいと思います」(吉田公一)——昭和31年12月発行の第8号まで続き、社内の注目を集めた。

  創刊号はガリ版刷り。吉田ハムさん(社会部では吉田姓が他にもいたので、ハムさんと呼んでいた)がガリ版を切った、とある。

 9月18日に第2号。「よし、3号も、という気になります」とあとがきにハムさんが書いているが、12月に発行した第3号の編集責任者は坂本充郎(のち政治部、地方自治専門)鈴田敦之、青木茂の3人にバトンタッチしている。出しゃばらないハムさんらしい。

 『新章九十年史』には「五番線」全号の目次と、主だった原稿が採録されている。残念ながらハムさんの文章は載っていない。

 その代わり89年4月3日勉さんに届いた手紙が採録されている。

 ハムさんは1947(昭和22)年12月入社。61(昭和36)年4月内信部。71(昭和46)年2月社会部。77(昭和52)年新社発足に伴い退社。

 《29年11ヶ月の在社を、前中後期と分けると、前期の連絡は約13年いた。当たり前のことだが、青春時代であり、仕事も遊びも思い切ってやれた》

 《社会部時代で楽しかったのは、浅草の東支局の5年間だった。染太郎のおばちゃん、神谷バーの渋谷支配人など、下町の心のふれあいがうれしかった。あの昭和50年前後、東支局から出稿した街ダネには「また〇〇が消えていく」という歴史・人情ものが多かった》

  いつもニコニコ、温顔で怒った顔を見たことがなかった。

 『新章九十年史』を制作・発行した吉田勉さん(2003年没70歳)。1988(昭和63)年2月1日に毎日新聞社が速記を廃止した年に定年退職した速記者で、東京本社連絡部にあった昭和6年から42年までの3冊の部内連絡帳を、習い始めのワープロで打ち込み、それ以前の電話電信、速記史をまとめた。B5判、本文745ページの大部なものだ。

 速記の廃止に伴い《さよなら「電話速記」》を「記者の目」に書いた。

 速記が新聞に導入されたのは、1899(明治32)年2月1日で、その生みの親は、当時の大阪毎日新聞社長の原敬(のち首相)だった。

 速記者の特ダネとして、1950(昭和25)年3月1日、当時の池田勇人蔵相(のち首相)が国会で「中小企業の5人や10人自殺してもやむを得ない」と発言した。それを速記録から起こして紙面に掲載、特ダネとなった。速記録が動かぬ証拠となったというのだ。もっとも池田蔵相の放言としては、その年12月の「貧乏人は麦を食え」の方が有名だが。

(堤  哲)