随筆集

2021年8月24日

思い出すままに――森桂さんの「つれづれ抄」④

飯島オーナー

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 夕刊社会面に「赤でんわ」というコラムがあった。朝の十時にサブデスクが「赤でんわ、ある?」と聞いてくる。このコラムは地方支局などから上がってきた、ほやほやの社会部員を警察に張りつかせ、記事の書き方のイロハを鍛える場に使われた。

 歳を取ってから社会部員になったので、僕の受け持ちは一方面。銀座、赤坂、六本木など話題の宝庫である。記者のたまり場は丸の内署だ。朝日は東大法学部卒の青年、東京は同大国文学科卒と、みな立派な経歴の持ち主だったが、いたって和気あいあいの仲良し。拘束時間が解ける午後十時を過ぎても、赤ちょうちんで下世話なおシャベリにふけっていた。

 その日は単独行動と決め込んで銀座の裏通りを歩いていた。すると女子大生と思しき集団が、アルミホイルに包んだ何かを地面に置いて回っている。「それ、ナニ」と聞くと「アジの煮つけです」と答える。近くのビルのオーナー飯島美奈子さんから頼まれたバイトなのだそうだ。早速、ソニービル近くの女性専用の喫茶店に飯島さんを訪ねる。

 銀座生まれの銀座育ち。銀座をこよなく愛している。ところが最近の銀座は、ネズミがはびこって不潔だから、のら猫に退治してもらおうと、エサをやっていたそうだ。初めは飯島さん一人で雨の日も風の日もエサやりを続けた。二十五か所のえさ場で百匹を超すのらが待っている。一匹ずつ名前をつけて話をしながら回る。

 飯島さんは言う。「三匹以上の子どもを産んだのらを見たことがありません。しかも、一匹ぐらいしか育たない。長生きしているのらで五年。たいていは一年か二年で死んでじゃいます。子どもの数も少ない。だからえさをやっても増えません」

 僕はすぐ「赤でんわ」に書いた。反響はそこそこあった。女性週刊誌も取り上げた。だが飯島さんは、ちょっと不機嫌だ。いつもアジを仕入れている魚屋さんに行ったら、「また、のらにやるんでしょ、って言われちゃった」。

 飯島さんは大金持ちだ。ビルを何軒も持ち、有名なクラブのオーナーである。アルコールは全くだめ。ウーロン茶でごまかす。

 銀座四丁目の交差点の真裏にあった会員制クラブ「百合」は、十一人が座ると満員になる。十二人目の客が来ると、一番早くから飲んでいた客が席を立つことになっている。メンバーは各界の名士が素顔で訪れる。僕は飯島さんのお蔭で入会を許してもらった。最年少ではなかったか。

 ママは坂本百合さん。群馬県高崎の産で、高校を卒業して上京、証券会社のOLになった。その間に、売れっ子の直木賞作家と恋に落ちる。銀座に小さくてもいいから店をもちたかった百合さん。作家との関係を切ろうと申し出る。すると作家は彼女に示談金を要求してきたのだ。気持ちは決まっている。すぐに飯島さんに泣きつき、大金を借りて作家に突きつけ、関係を切った。あっぱれだった。

 「百合」は、もうない。店いっぱいに広がるユリの花の残り香が、心に漂うばかりである。

 銀座が今のような外国有名ブランドの街に変わり始めた頃、飯島さんは若い人の街を目指していろいろな企画を立て、実行に移していった。毎年大みそかに行われた「大学演劇祭」もその一つ。全国から大学演劇部のメンバーを集め、日本一を競い合うという壮大なスケールの催しものである。毎年審査員は変わったが、僕はレギュラーを務めさせていただいた。まだ売り出し中の漫画家でタレントの蛭子能収(えびす・よしかず)さんの顔もあった。学生らの迷?演技に笑いこけて、話をする暇はなかったが、好感の持てる人と思った。

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楠本健吉さん

 タウン雑誌の発行も思い出に残っている。バイトの学生たちが選ぶ人にインタビューするのが常だったが、僕は近代俳句の旗手・楠本健吉さんを提案した。楠本さんは灘中学で遠藤周作さんと同級だった。生家は料亭「なだ万」である。

 暑い夏の日が落ちるころ、楠本さんは現れた。汗を拭きながら楠本さんは口を開く。「新宿でパチンコをしてね、ぶらぶら歩いてたら制服の女子高生に声を掛けられた。『おじさん遊んでかない』って。赤いシャツを着てたんで目立ったんだろう。都立の高校に通ってるらしい。咄嗟なことに返す言葉がなかったけど、ここは落ち着いて、君、自分を大事にしなきゃ、と言ってパチンコで儲けた五百円を渡して別れたのさ」。

 出鼻をくじかれたが、一夜漬けで頭に入れた近代俳句までたどり着いて対談を終えた。そして雑談になり戦争の話題になる。僕が「われわれが、かろうじて戦争の記憶がある年代です」と言うと、楠本さんは「戦争に行ったか、行かなかったは大違い。行かなかった人には判らない」と即座に切り返された。そう言い切る人がまだいた時代である。

楠本さんの秀句

 汝が胸の谷間の汗や巴里祭
 郭公や過去過古過去と鳴くな私に
 失いしことば失いしまま師走

(つづく)