随筆集

2021年8月26日

「帝国の墓場」ロンドン特派員だった中井良則さんの「1989年カブール取材記」

画像
国際面に掲載されたアフガニスタン報告(1989年3月27日朝刊)

 大事件があると、マスメディアは過去の似た事件と比較します。アフガニスタンの首都カブールが2021年8月15日、タリバンの速攻により陥落した時、アメリカの新聞・テレビは一斉に1975年のサイゴン陥落の映像を流しました。大国アメリカが遠く離れたアジアの小国に介入し、引くに引けず、敗れて、混乱の中、去っていく。アメリカのメディアは46年前のベトナム戦争が同じ構図だったことを覚えていたのでしょう。

◆「カブール? まあ行っていいよ」◆

 私が思い出したのは1989年3月のカブールでした。アフガニスタンを10年間占領したソ連軍が撤退し、傀儡政権が取り残された首都に入ったのでした。当時はロンドン特派員で、在英アフガニスタン大使館で、なぜかビザが取れました。東京に出張を申請すると「カブール? まあ、行っていいよ」となり、ニューデリーで飛行機を乗り換えて標高1800メートルの高原にあるカブールに着きました。ソ連軍撤退は日本でも大きく 報道されましたが、その後は目立ったニュースもなく、アフガンは紙面から消えたころです。東京のデスクの「まあ、行っていいよ」の裏には「記事になるのかね」という疑いがひそんでいたことは、いやでも分かりました。

 日本も含め外国大使館、それに国連や国際機関の多くが軒並み撤退し、外国人はまずいません。ソ連軍が消え、国内各地でムジャヒディンと呼ばれたイスラム勢力の反政府ゲリラやら軍閥やら武装勢力が戦っていました。タリバンはまだ結成されていませんが、誰が誰と戦っているのか分からないほど混沌としています。ソ連に見放された政権が遅かれ早かれ、崩壊するのは目に見えています。かといって、きょうすぐに何か起こるわけではない。小康状態。嵐の前の静けさ。何か書くことあるのか、と東京が思うのも無理はないのです。

◆テレックスのカタカタで幸せに◆

 出張取材でまず確保するのは東京との通信手段です。当時、カブールで外国人記者が泊まれるのはコンチネンタル・ホテルだけでした。丘の上にぽつんと残るホテルに行くと、Intercontinental HotelのInterが削り取られていました。もとは有名な国際ホテルチェーンだったのが戦乱の中、ただのコンチネンタルになってしまったようです。外国人記者は6、7人いたでしょうか。日本人もいたけどA紙かY紙か、はっきり覚えていません。ニューヨークタイムズもいました。

 電話はかからない。食堂で出る食事は昼も夜もスバゲッティだけ。政府の報道担当者がいつもいるけど、何を聞いても「分からない」。そのうち、彼らは外国人記者にスパゲッティをおごってもらうのが主目的だ、と気づきました。インフレと食料不足が深刻でした。

 なぜわれわれ記者がこのおんぼろホテルに集まるのか。ロビーの隅にテレックスが1台あるからです。電話が通じないので、外への連絡手段はこのテレックスだけなのです。

 下手をすると記者たちの行列ができていて、いらいらしながら順番を待ちます。やっと自分の番になると、ローマ字で原稿を打ち、鑽孔(さんこう)テープを作る。次にカブールのどこかにある電報局をキーボードをたたいて呼びだす。東京の新聞社の番号を指定してつないでくれるよう頼む。これがなかなかつながらない。電報局の見知らぬ誰かの機嫌が悪いのか、機械の調子が悪いのか。やっとつながると、細長いテープを機械にかける。カタカタと流れていきます。このカタカタの音で幸せになれたものです。

 東京本社の受け手のテレックスで受信した同内容のテープはローマ字原稿の紙となり、円筒に入って編集局の天井をはう気送管で送られ外信部に落ちる。アルバイトがローマ字を日本語に直し(「翻訳」と呼んでいました)、デスクの手に届く、という仕組みです。まだ、テレックス回線はつながっています。

 たまにデスクが暇か、善き人であれば、「元気か」のひとことがカブールでテレックスをにらんでいる私に届く。何も言っていこないので、「外信デスクに連絡ないか聞いてくだい」とテレックスをたたくと、しばらくして「特になし」で回線が切れる。がっくりです。

 ニューヨークタイムズの記者がいたことをなぜ覚えているかというと、彼は時差の関係もあり夜遅く、長い時間、テレックスを独占する。ニューヨーク本社からは、記事の扱いだけでなく、紙面の主な見出しが送られてくるそうです。もちろん、デスクともテレックスで会話する。それに驚いたわけです。

 こちらは自分の送った記事が載ったかどうかも知らされず、闇夜に鉄砲の毎日でしたから、「やっぱりね、違うね」といじけたものです。

 外信部でもテレックスを使った最後の世代か、と思います。

◆忘れられた戦争◆

 砂かほこりかザラザラした記憶があるカブールの街を歩き、取材しました。残留した国際赤十字委員会が運営する外科病院も訪ねました。この委員会で聞いた言葉があります。「ここは忘れられた戦争になる」。2001年、アメリカで同時多発テロ事件が起こり、アフガン戦争が始まった時にワシントンにいた私は、思い返すことになります。

 ソ連が占領していた間は国際ニュースとして世界でアフガンは報道されました。ソ連が撤退し、アフガン人同士の内戦になれば関心は薄れます。「世界が忘れてしまった戦争は現に、あちこちにある。外国人はやってこないし、記事にしない。でも人々は傷つき、苦しんでいる。この国も世界から忘れられてしまう」。彼はたんたんと話していました。

 アフガンで何が起こり、だれが権力を握り、人々の暮らしがいかに変わったか、世界はソ連撤退から10年以上忘れていました。そして同時多発テロで、地球儀を見直してアフガンを思い出したわけです。

 テロとの戦いと民主化を大義名分として、アメリカやNATO諸国はアフガニスタンに兵士を送り込みました。「最も長引いた戦争」にうんざりし、ビンラディンを殺害したあとはアフガンは視界から遠ざかりました。自分たちが育てた政権と政府軍がある日、消えたと知り、もう一度、地球儀を回してアフガンがどこにあったのか探したことでしょう。

 いまの撤退に伴う混乱が収拾されると、また世界はアフガンを忘れてしまうかもしれません。

◆もうひとつ追加された「帝国の墓場」◆

 カブールで誰かから聞いたのか、何かで読んだのか、覚えている言葉があります。

 「graveyard of empires 帝国の墓場」です。アフガニスタンに侵入した大国は、この土地と人間を意のままにできるとうぬぼれるが、やがて抵抗され、力尽きて退場する。その歴史をさす言葉です。今回、調べ直しましたが、だれがいつ言い出した言葉か分からないようです。

 empiresと複数になっているのがミソです。もろもろの帝国とは?

 1979年から89年までのソ連、2001年から2021年までのアメリカはすぐに思いつきます。それだけではありません。紀元前4世紀にはヨーロッパ・マケドニアからアレクサンドロス大王が、13世紀にはモンゴルからチンギス・ハンが侵攻し、引き揚げました。19世紀には、南下政策のロシアとインド帝国拡大をめざすイギリスがぶつかるグレートゲームの舞台となりました。外交権を奪い保護国としたイギリスは3次にわたるアフガン戦争で疲れ果て、1919年、独立を認めて手を引くしかありませんでした。

 2021年のカブール陥落は、アフガン史からみれば「墓場」の長いリストに、また一つアメリカという国名を追加したことになります。

◆「カブール息ひそめる日々」◆

 1989年のカブール取材は1週間ほどでビザの期限が切れて終わりました。テレックスの順番待ちでやっと送った原稿もほとんどボツの山でした。国際面のアタマでかろうじて1回だけ扱われた記事の切り抜きを見つけました。

 「カブール息ひそめる日々 第2のサイゴン …おののき」の見出しがついています。当時もベトナム戦争のアナロジー(類推)が成り立っていたのです。そしていま、タリバンに見つかることを恐れ、隠れ家に潜む人々の「息ひそめる日々」が早く終わることを願います。

 次の帝国が別の地から逃げ出す時は「第2のカブール」と呼ぶことになりそうです。

(中井良則 2021年8月25日 記)

※中井良則さんは1975年入社。振り出しは横浜支局。社会部(サツ回り、警視庁、遊軍)を経て外信部。ロンドン、メキシコ市、ニューヨーク、ワシントンの特派員。イラク戦争の時は外信部長。2009年、論説副委員長で退社。公益社団法人日本記者クラブで事務局長・専務理事を務め、2017年退職