随筆集

2021年8月30日

思い出すままに――森桂さんの「つれづれ抄」⑤

中村紘子さん

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NHK交響楽団とともに初の海外ツアーに参加した1960年の和服姿

  昭和二十三年春、僕は渋谷区にある私立小学校に入学した。その年から男女共学になり、二クラスが三クラスに広がった。一貫教育の学校は、同じ敷地に中学が併設されていたが男子校だったので、物珍しさもあってお兄さんたちがのぞきに来た。

  三年経って迎えた新入生に中村紘子さんがいた。ピアノに優れた才能を示し、全日本学生音楽コンクール小学生の部で全国優勝。「赤屋根」と呼ばれる木造の講堂でリサイタルを開いたのでみんな知っていた。ぽっちゃりとした顔立ちだったので、僕たちは彼女を「白ぶた」と呼び、習字の筆を洗ったバケツの黒い水を、彼女にかけたりする悪さをした。

  時は流れる。僕は入社試験に挑戦する。なにしろ受験戦争とは無縁で育っただけに、どんな準備をしていいかわからない、ただ新聞だけは隅までよく読んだ。作文は自信があった。題は「水」。前年に東京の水がめが干あがって給水制限になった。社の作文は毎年「木」とか「火」とか、誰にでも書けるテーマを題にしていたから、今年の題は「水」だろうというヤマが当たったわけだ。

  常識問題の中に「中村紘子」というのがある。社の事業の中から、一つに絞って出したのである。中村さんは、前年にポーランドのワルシャワで開かれた第七回ショパンコンクールで四位に入賞。彼女が小学生の時に学生音コンで優勝したことにちなんでの出題だった。

  中村さんのショパンコンクール入賞は大きな話題となった。友人や彼女のファンを中心に「中村紘子を励ます会」が結成された。僕もメンバーに加わった。その最初の会で、僕は「白ぶた」の話をした。「何よ、あなたたちだったの」と彼女は驚いた表情を見せたが、それをきっかけに友達になった。

  彼女は表参道のマンションに住んでいた。十畳くらいの練習室にはグランドピアノが、部屋からはみ出すように置かれていた。ピアノが弾け僕だが、クラシック音楽には中学の時から親しんでいたので話は合った。いろいろな音楽家が音合わせに来るたびに、彼女は僕を招いた。生で音楽を聴くのは、初めての経験だ。彼女は母上とおばあちゃんと住んでいたが、「今日は誰もいないんだ」という日には、渋谷の「東横のれん街」で食料を買い込んでは、彼女は手際よく料理を作ってくれた。箸休めは彼女の弾くモーツアルトやショパンだったりした。

  ところで彼女の演奏を、目と鼻の先で聴いた男が社に一人いる。宇都宮支局で後輩の平山昭男君である。彼は東大法学部の出身。司法試験を受けようとして、試験がすでに終わっていたことに自宅で気づいたそうで、代わりに社の試験を受けたというツワモノだ。久しぶりに一緒に飲んでいると、彼は「中村紘子が弾くベートーベンのピアノ協奏曲『皇帝』が聞きたい」と急に言い出す。電話をすると彼女は起きていて「どうぞ」と言う。驚いたのは平山君だ。夜も更けていたが彼女は、ウイスキーをごちそうしてくれた。演奏は三十分ほど続いたが、ふと平山君を見ると、すやすやと眠っている。僕は恐縮するが、中村さんは「札幌の演奏会で、最前列のお客さんがお煎餅をポリポリかじったことがあったわ」と笑っていた。

  五年前の七月二十六日、朝の五時。ラジオは中村さんの訃報を伝えた。「エッ」と思う。大腸がんだったそうだ。前の日には自宅に帰り、夫君の芥川賞作家・庄司薫さんとお祝いをしたばかりだった。追悼番組で聴く晩年の彼女の演奏は、華やかさが消え、静謐な世界をさまよう境地にあったように思える。

 (つづく)