随筆集

2021年9月7日

思い出すままに――森桂さんの「つれづれ抄」⑥

菊池寛の眼

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菊池寛

 父(森正蔵)は日記にさまざまな人との対話を記している。これは昭和十九年十一月十五日の部分である。

 夕方、築地の「楠幸」へ菊池寛と久米正雄とを招く。横光利一も招いていたのであるが、彼はひどく胃をこわしているので「残念ながら」と出席を断って来た。この催しは、本社の客員であった三人と表面上、手を切った形になるので、一応これまでの労を謝するという意味のものである。菊池寛が珍しくよく喋ったりして、今晩の会合は面白かった。そのうちの一つ―今度、創元社で「創元」という一部百円という雑誌を出す。それにのせる小林秀雄の「モッツアルト論」は、面白いと学芸部記者が切り出したことについて、小林秀雄のことに話が移る。

 菊池寛は「小林という男が、そんなに立派なものを書くのかネ」と言う。みなが「冗談ではない。小林秀雄を世に出したのは文藝春秋社ではないですか。それをあなたが知らぬという法はない」と言う。そこで菊池は語を継いで「小林の方では僕を認めているかも知れぬが、僕は小林を認めないね。小林が僕を認めているというのは、こういう訳だ。大阪へ競馬に行って小林に会った。小林は負けて負けて、からっけつになった。可哀そうになったので僕は、君この馬を買いたまえ。複ならばきっと当たるにちがいない。金なら僕がいくらでも貸してやるからと云って買わしたところが勝ったネ。あれで僕を認めぬという法はない」。

 それから文学論が出た。いろいろ珍しい話、面白い話を聞くことが出来たが、「作家の真価とその名声」というものは決して一致するものではないという話から、菊池は尾崎紅葉と泉鏡花の例を出した。作品の価値では鏡花の方が優れているのに、名声は紅葉の方が上に位しているのはおかしい事実だというのである。それに次いで「だが作品の価値とその作家の人間性というものも一致しない場合があるものだ」と言って、鏡花について次のようなことを語った。

 あれほど「恩師紅葉」などと外に対して言っていながら、紅葉の未亡人が生活に困ってある年の暮れに鏡花のところへ金を借りに行ったところ、鏡花はそれを拒絶している。

 そして金十円を包んで歳暮だと言って紅葉未亡人のところへ送ったということがある。どんないきさつがあるか知らぬが、人間的に見て面白くない。それから佐渡の小木港で紅葉の碑を建てるというので、その資金の基金に僕たちのところへも色紙を書いてくれと言って来た。僕はまずいのを二、三枚書いたが、鏡花はにべもなく断っている。色紙を書くのがいやだったら、金でもやれば良いじゃないかと思うんだがネ。この話の序に作品のなかの会話について菊池は言う。

 紅葉の作品を大したものでないと僕は言ったが、彼の作品のなかの会話は良い。現代の作品に、あのまま持って来ても立派なものです。会話のよしあしには、時代の隔りはないと言ってもよいわ。夏目漱石も菊池寛には極めてみじめな取り扱いを受けていた。「久米や芥川があんなに漱石を大家扱いにするのが僕にはおかしくて……」と言うのであった。

 題字がモノクロだったころ

  赤いりんごの露店の前で
  だまって見ている青い顔
  りんごの値段は知らないけれど
  りんごのうまさはよくわかる
  りんご高いや高いやりんご

 敗戦に打ちひしがれた国民を襲ったインフレはもの物凄かった。これは昭和二十五年秋に東京新聞に載った「りんごの唄」の替え歌である。

 戦後になると、社員の生活はますます苦しくなった。だが全国に張りめぐらした地方支局と一体となって、懸命に支え合っている姿が父の日記に浮かび上がる。

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忘年会のスケッチ。右が戸川(父の日記から)

 政変(社会党・片山哲内閣成立)に社内中、ことに政治部ではおそくまで活気にあふれている。慰問のために粕取り焼酎(二十年五月三十日付)二本(一千円)を出す。四版締め切り九時。

 神田太郎が「亀甲萬(キッコーマン)の醤油を二升くれた。これはこの節、なかなか手に容れ難い貴重品である。(翌日付)

 立石隆一(学芸部)が西瓜をくれた。この間から果物屋の店頭ではちょいちょい見うけたが百六十円とか百八十円とかいう値がついていて、ちょっと手が出なかったものだ 三三会を復活させる。この会がしばらく続いてすぐお流れになってしまったのは、どういう原因であるかわからないが、今度はこの会を愉快な集まりにすることに力を注ごう。まず何か茶菓子を出す。誰かにおもしろい話を用意させておいて、それを発表させる。そして月に一度くらいは会員全部が集まって、一ぱい飲むようにする。そのために会費をとることにした。部長五十円、次長、局長百円、なお寄付金も機会あるごとに取る。

                

 敗戦は家計を苦しめるだけではなかった。GHQの新聞統制である。そのうっ憤を晴らす光景が、二十五年十二月二十四日に繰り広げられる。

 いよいよ年も押し詰まって、あちらこちらで忘年会の催しがあるが、社会部でもかねがねの懸案であったその会を、今夕芝浦の東港園で開く。このごろ、こういう催しも値が高くてやりにくい。今夜の会なんかも一人あたり百円ばかりにつくのだが、支那料理がちょっぴり出たのと、酒は生麦酒にウイスキーである。それでも四十人ばかりの参会者が、ずいぶん騒いで大成功。例によってそれぞれの隠し芸続出のなかに、今夕の白眉は何と言っても戸川の猿と塙(はなわ)の猿回し。余りのことに皆開いた口が塞がらぬという様だった。

 帰りは一同トラックに乗って社まで行き、そこで解散したが、夜更けの街を行くトラックのうえで、酔っ払いどもが思いつきの歌を合唱する様は、また一段と物凄かった。

 クリスマス・イーヴ。進駐軍の兵隊たちの天下だ。第一相互のマッカーサー司令部ではMerry Christmasのイルミネーションがまばゆく、お濠の水にうつっている。

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 戸川(幸夫=写真)は社会部長を経て動物作家になり、イリオモテヤマネコの存在を世に知らせた。塙(長一郎)は社会部記者からNHKの人気番組「二十の扉」のレギュラーに。記者でありながら暴力団・関東松田組の参謀格となり相談役的な役割を担った。いまでは考えられない話である。(つづく)