随筆集

2021年9月8日

瀬下先生と毎日新聞

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学生新聞編集部田村彰子さん

 もうきっかけも思い出せませんが、漠然と出版社に入りたいと思っていた大学3年生の私は、神保町にある瀬下恵介先生主宰の「ペンの森」の門をたたきました。5期生だったので、1期生で新聞記者になった先輩方はまだ支局にいらっしゃり、出入りするのは岸井成格さんを中心とした先生とつながりがある毎日新聞の大先輩が多かったと思います。そのため、「新聞記者はすぐ怒鳴り合いをする」「支局でたばこを吸いながら部下の原稿を見る、よれよれの白Tシャツを着たデスクがいる」「毎日新聞の記者は、夜はだいたい酔っ払っている」といった、今から考えると半分合っていて、半分間違っている情報をたくさん植え付けられました。

 そんな先生が、ある日、「おまえは新聞記者が向いているから、新聞記者になりなさい。特に毎日新聞が良さそうだ。新聞記者は楽しいぞ」と突然言い出すではないですか。理由は今もって全くわかりません。その時は「先生のそういう勘はだいたい当たる」という都市伝説が生徒の間に広がっていて、私も「そうなのか」と特に疑問を持つこともなく、そのまま新聞記者を目指すことにしました。今から思えば突っ込みどころ満載ですが、先生のもたらした不思議なご縁に導かれたとしか思えません。

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「ペンの森」を引退した2018年11月(送別会の写真も)

 そんな先生は、ずっと毎日新聞を愛していたと思います。上司に平気で文句が言えることや、酒を飲んでつばを飛ばし合いながら議論するのが当たり前の社の雰囲気をよく笑いながら話してくれました(時には岸井さんの武勇伝なども)。古い毎日新聞の本もたくさんあり、「泥と炎のインドシナ」を初めて手に取ったのは「ペン森」です。取材の前に、関連書籍をたくさん読む作業は先生から習いました。私はずっと「黄金期の新聞社社会部の遊軍長」が、先生を言い表すのに一番しっくりくると思っています。森羅万象に興味を持ち、書籍、雑誌、新聞から幅広い知識を得て、ちょっと斜めから世の中を斬る。私が社会部に上がり、夜回り前に酒の入っていない先生とさまざまな話をするようになってから、その思いは強くなるばかりでした。「白いヨレヨレTシャツのデスク」ぐらい、「ザ・新聞記者」な方だったのです。

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 私が記者生活を始めてから今日まで、ずっと心がけていることは「ご縁を無駄にしない」です。どんな人がどんな縁を持って現れるのか、誰も分からない。でもそんなご縁が人生に大きな影響を及ぼすことがあると先生から学びました。毎日新聞の記者をして、夫も毎日新聞の記者で、子どもは3人いるという人生は間違いなく先生からもたらされたものです。そして、同じように「先生がいなかったら、全く違う人生だろうなあ」と思っている毎日新聞の仲間がたくさんいることでしょう。

 今回の訃報に接し、毎日新聞社内の1期から23期までの「ペン森」生に声をかけさせていただきました。だいたい一つの期に1人はいて、全国に散らばっていました。先生のまいた種は、いろいろなところでいろいろな形で今後も育っていくはずです。「師」として肉体はなくなっても存在し続ける先生ですので、なんとなく「ありがとうございました」という別れの挨拶はなじまない気がします。やっぱりこうでしょうか。

 「先生、そちらに行きましたらまた飲みましょう。お土産話をもっていきます」。

(2002年入社の学生新聞編集部、田村彰子さん)

《牧内節男さんの銀座一丁目新聞から転載》

瀬下恵介君を偲ぶ

(柳 路夫)

 毎日新聞社会部で一緒に仕事をした瀬下恵介君がなくなった(8月9日・享年82歳)。

 仲間の板垣雅夫君からメールを頂いた。それによると、13日の葬儀は家族でやりますが、供花は受け付けるそうですので、皆さんとともに、「毎日新聞社会部ロッキード事件取材班」でお花をお送りしたいと思いますが、よろしいでしょうか。ご賛成いただければ板垣が手配いたします。先ほどお宅へ電話したところ、お嬢さまが出てきて、6月に誤嚥性肺炎となり、老衰ということもあって、なかなか回復せず、9日午前3時ごろ永眠なさったと言っておられました。誠に残念です。では、以上の件、12日には手配をしたいと思います」とあった。

 瀬下君は毎日新聞社会部時代、ロッキード事件の取材仲間である。辞めたあとも良い仕事をされた。彼を有名にしたのは彼が創設した「ペンの森」マスコミ塾である。彼には人を束ねてガヤガヤ論談させて有志で事を進めてゆく才能があるようだ。私もスポニチをやめたあと5年ほど「マスコミ塾」を開いたが5年と続かなかった。あまりにも学校の教室的な授業をやりすぎた。作文に絞って生徒と一緒に話しながらやるべきであったと反省している。一時期、ニューズウィーク日本版発行人であった。彼に頼まれたニューズウィークを数年間購読した。非常に勉強になった。そのあと瀬下恵介君が1995年に「ペンの森」を創った。瀬下君や元朝日新書編集長の岩田一平さんらが熱心に指導した。

 さらに、ペンの森OBの朝日、読売、毎日、NHK、共同、日経、文春、博報堂などの現役マスコミ人が手助けをしてマスコミ界へ有為の人材を送った。毎年年末の瀬下君はハガキでペンの森から何名マスコミに入ったか細々と書いたハガキが送られてきた。手元にある資料では「ペンの森は11年目に入りました。捏造記者、放火記者は永遠に出しません」(2005年11月)「フェイスブックをはじめました73歳にして新しい知り合いの輪が広がります」(2011年11月)「ペンの森での教え子の記者、編集者は400人になります」(2013年11月)

 心からご冥福を祈る。