随筆集

2021年9月13日

思い出すままに――森桂さんの「つれづれ抄」⑦

味のちがう国

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ブダペストを流れるドナウ川に懸かる「くさり橋」

 これは、ちょっと当てが外れたかな――と思った。定年を一年残して退職し、一家三人と犬一匹とを連れて、ハンガリーの首都ブダペストへ引っ越しての感想だ。内陸国だから、新鮮な海の魚は期待しなかったが、こんなに食べ物がしつこくて、しょっぱいとは思ってもみなかったから。

 ハンガリーについては、父(森正蔵)の遺した日記を読んで、頭の片隅にあった。「丘の上の古城の壁に夕日が映え、暫くすると夕焼け雲を背負った川上の丘陵が、色と形との極美を描き出していた」。一九四〇年六月、父はモスクワ特派員勤務が解け、帰国途中に母とともにローマからブダペストに飛んだ。この月、イタリアのムッソリーニは英・仏に宣戦を布告した。母はこの演説をホテルを抜け出し聴いたが、父は灯火管制で真っ暗なローマとは違い、ドナウ河に沿って広がる美しい街をしみじみと眺めたのだろう。僕も下見に訪れ、父と同じ思いをしたのだった。

 ハンガリー人は、同じアジア系の民族である。顔立ちは全く違い欧州の体型だが、十人に一人は蒙古斑があるという。偶然だろうが、よく似た単語も多い。水はヴィーズ、白鳥はハッチュウ、帯はウーヴ、打つはウートゥ、湖はトーで、アイヌ語の湖トーと全く同じである。どれも生活に密着した言葉であることに注目したい。太古の昔に、二つの国の祖先はバイカル湖の南で一緒に暮らしていたが、その後両者は東西に移動したという説を唱える学者がいた。トート・カザールさんという老人で、「古事記」のハンガリー語訳で知られる。両国の言語を巡る学会で何回も発表することがあったが、両国民がたどった地域を実地調査していないので、学説にはならなかった。

 ブダペストをはじめ地方でも日本語熱が盛んだ。指定されている小中学校には、特別な日本語の授業が毎日あり、会話はもちろん漢字の読み書きを習っている。上級のクラスになると、今どきの日本人も使わない会話で自分を表す子供がいたりしてびっくりさせられた。中学生新聞のデスクをしている時、きれいな日本語で「お友達になりたい」とペンパルを求める手紙が学校単位で届いた。不思議に思っていたが、その疑問の答えが解った。

 話を元に戻そう。なかでも塩はハンガリー語でショー。しかも塩が足りない時は「シオタラン」と言う。大衆食堂でもホテルでも、かなりの辛さなのに、地元の人には味がさっぱりしていると感じるらしく「塩足らん」とボーイさんに注文していた。初めて聞いた時は日本語かと耳を疑った。塩はちゃんとテーブルの上にあるのに、まだ足りないらしい。ある晩、タイ料理を食べに行ったら、心配が当たって、辛い、辛い。注意すると「薄味と注文してください」と切り返されてしまった。毎週、部屋の掃除をしてくれるおばさんは、おふくろの味を僕たちにご馳走しようと、張り切って作ってくれたが、塩辛いのには参った。 さらに面白いことに、住所は都道府県から書き始めるし、姓名の呼び方や年月日の書き順も日本と同じだ。

 ハンガリー料理は、ルーマニアのトランシルバニア地方、トルコやスロバキア、オーストリアの影響を受けている。ほとんどがロールキャベツのように皮で包んだり、煮込んだりしたもので、日本料理のように蒸したり、塩焼きにしたものはほとんど見当たらない。独自の料理には、日本人にもおなじみのグヤーシュがある。もとはハンガリー西南部に広がる大平原(プスタ)の牛飼いが、塩と香辛料で味つけした骨肉をパプリカとともに、弦で下がった鍋で煮込んだもの。

 ある時、昼間のパーティーに呼ばれて驚いた。バーベーキューといううたい文句だったが、広い庭の真ん中に置いた鉄板にラードの塊を乗せ、溶けたラードを肴にワインを飲むという寸法である。口がねばねばするし、ラード独特のにおいが口の中に広がり、ついついワインを飲みすぎるので、さすがの大男たちも歌えや踊れの騒ぎになった。

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牛飼い料理のグヤーシュ

 ハンガリー料理を「世界で三大料理」と、ほめそやす人たちがいる。英国に住む美食家のローナイ・エゴンは「フランス料理や中国料理とともにハンガリー料理は東西文化の接点にあり世界一」。やはり長く英国に住んでいる怪奇小説家のオルチ伯爵夫人は著書「紅はこべ」で「英国人は王様のような生活をしているが、食事は豚のようだ。ハンガリー人は豚のような生活をしているが、王様のような食事をしていることを神様はご存じだ」と。

 でも、僕は「うーん」とうなってしまうのである。(つづく)