随筆集

2021年10月5日

思い出すままに――森桂さんの「つれづれ抄」⑧

 連載「東京二十四時間」 上

 もうすぐ開戦80周年を迎える、数週間前にNHKから電話があって、父(森正蔵)の日記を取り上げてくれるという。日記はすでに戦中と敗戦直後の部分が2冊の本になって上梓されている。「あるジャーナリストの敗戦日記」(ゆまに書房刊)と「挙国の体当たり」(毎日ワンズ刊)である。僕が今、ぜひとも活字に遺しておきたいのは、モスクワ特派員時代に東洋人でただ一人、傍聴したスターリンの粛清裁判のくだりである。

 生涯一記者を志していた父は、戦後初の社会部長になって、多くの企画を考え実行に移した。そのなかで、いまでも読者の胸を打つのは昭和二十年十一月に掲載された連載「東京二十四時間」である。三編を採録する。

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――「このままでは負けてしまう」みんなが秘かにそう思っていた。そしてその通り負けてしまった。

 世界史の奇蹟といわれる見事な混乱なき終戦ぶりであったが、今日このごろの食糧危機、住宅払底、大量の失業、「闇」の公然化などなど、国の崩壊作用がやたらに起きている。「このままでは亡びてしまう」そう思う今ではなかろうか。焼け跡にキャバレーが出来てジャズの騒音が流れ出したり、ブタ箱と一言にいわれる警察の拘置所が、日当たりの良いところに移されて人権が「尊重」されたり、商店街復興の槌音も高々と響いているが、そこに流れる深刻さ、民主主義日本への歩みの困難さは蔽うべくもないのだ。帝都の夜明け、昼、夜の明暗を探訪して、敗れた日本から新生日本への縮図を描いてみる。

 脂粉・生活苦の狂躁(きょうそう) 
  銀座松坂屋地階・進駐軍専用の舞踏場
    切符売り上げ日に二万円

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 掻きむしるようなサキソフォンの響き、蒸せるような脂粉の香り。ジャズの合間に何を囁(ささや)くのか片言英語……国際歓楽場と銘をうち、去る十一月三日から開場したキャバレー・オアシス・オブ・ギンザ(銀座松坂屋百貨店地下二階)の開場時間午後一時である。開場間際ともなれば、進駐軍の伊達者は早くもネクタイのゆがみを直しながら、キャバレーの入口に殺到する。歓楽境の朝から夜までを探訪しようという記者は、開場と共にチケット売場の片隅にチョコナンと陣取った。「入場者はチケットをお求めください」と英文で貼り出してある。もちろん、お客は進駐軍ばかりで、日本人は一切お断りである。

 ダンサーは三百名。振り袖、ドレス、支那服、思い思いの姿で待機している。厚いドーラン化粧、瞼に塗る青いアイシャドー。そのままレビューの舞台に立てるようなのもいれば、振り袖姿でどこのお嬢さんかと思われるようなのもいる。これはまた粋一筋、衣紋をグッと抜き、夜会巻で襟足の美しいところを見せ、前身を物語るようなのもいる。

☆ ★ ☆

 定刻一時! 開場です。十円札をつかんで雪崩こんで来るアメリカ兵は一枚二円、五枚綴りとなったチケットを大きな手で握って入場する。切符売り場の札入れ箱は、たちまち十円札で一ぱいになる。飛ぶように売れるとはこのことだ! 平均一日の切符売り上げはザッと一万枚で、毎日二万円を割ったことはないという。中央の踊り場は百二、三十組が楽に踊れる広さで英米両国旗、赤青色とりどりの色提灯が天井からぶらさがっている。昼でも電灯は赤々と輝き、脂粉の香りとジャズ・バンドに合わせて、いずれも長身のアメリカ兵がかがみ込むようにして、小さなダンサーを抱いて踊る。踊らない者は一人ずつダンサーを擁して、踊り場の周囲のテーブルにつき、英単語早わかりなどを持ち出して囁きあっている。紛然! 騒然! 雑然! 雰囲気はまさに国際歓楽境である。

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 さてこの勇敢な女性ダンサーたちは、どれくらい稼ぐのだろう、どんな気持ちで働いているのだろう。記者は読者と同じような好奇心と疑問をもち、ソロソロと探訪に取りかかった。

 一枚二円売りでダンサーの手取りは一枚につき六十銭。つまり一円四十銭は経営者の特殊慰安施設協会に流れ込む。一日二万円、チケットにして一万枚。これを三百人のダンサーで平均に稼ぎあげるとすると、一人当たり一日平均三十三枚当たりとなり、一晩の稼ぎは十九円八十銭。一ヶ月に十五日出勤するとして四百九十五円、それに一日五円の日当が出るというから締めて一ヶ月平均六百二十円の収入ということになるが、実際はそう平均には行かない。

 腕達者のダンサーとなると、一日二百枚(百二十円収入)からチケットを稼ぐ者もいるが、開店してから十日、平均に十五枚しか稼げぬというダンサーもいる。最低二十五枚、一ヶ月に十五日働くとして、日当その他を入れて最低収入者が五百円、女の稼ぎとしては全く馬鹿にならない。腕達者となると二千五、六百円から三千円の月収がある勘定となり、男子たるものもって如何となすの構えである。

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 進駐軍は親切、チョコレートや煙草に不自由しない、収入はいい、これじゃ全く文句なしに彼女らは新流行語の「ご機嫌さ!」かと思えば、華やかな戦場の影にはやっぱり一抹の悲哀はある。「世間のそしり」と「着物の悩み」、これである。

 彼女らのほとんどが戦災者で十八歳から二十二歳くらい。八割五分は素人(事務員、挺身隊、女工)、元ダンサーが一割(うち二分が元芸者)、元カフェー、喫茶店勤務が五分、という割合で、いわゆるダンスホール向きの着物を持っていない者が多い。一週間も着れば着物の裾は切れ、背中は手の汗と脂で黒ずんでしまう。街で着物を一枚買おうとすれば、外人向け土産としては派手な着物は七百円、八百円の高値で、とても手が出ない。協会側では帯から長襦袢まで揃えて貸しているが、貸衣装代を取っても着物を返してもらう時はボロボロとなってしまうので、月賦で買い取ってもらう仕組みになっている。和服一揃え五百円くらい。これをダンサーの収入と睨み合せて二ヶ月から三ヶ月で返済してもらうというから、稼いでも稼いでも着物代に追われるのじゃないかと彼女たちは嘆いている。

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 四時から五時までは昼の部と夜の部の切り換えで一時間の休憩だ。彼女たちはもう腹がペコペコらしい。休憩を待ちかねて食事に取りかかる。いずれも弁当持ちである。彼女らの食欲はものすごく旺盛だ。道のりにして売れない口で二里や三里、よく踊る子は十里くらいは歩いてしまう。協会でも豆餅などを時々サービスしているが、とても空腹の足しにはならない。ここにも切実な食糧難があり、踊るためには米のヤミ買いもしなければならない。記者はようやくナンバー・ワンといわれるイブニング・ドレス姿の花子さんというダンサーを捕まえた。

 「一番辛いこと…それは、ああキャバレーのダンサーかと一言に『夜の女』のように言われること…辛いですわ。私たちは生意気のようですが国民外交の一ツと思っています。彼らが私たちを通して『日本女性』とはこんなものかと感じて帰国するとすれば私たちの責任は重大です。生活のために私たちは一生懸命です、浮いた話などありませんワ…私たちに言わせれば、まちの堅気の娘さんたちのこの頃の風景の方が見るに耐えません」と、胸につけた赤い薔薇(ばら)よりまだ赤い彼女の気炎ではある。

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 六時、七時と夜の部ともなれば、益々大入りで、ホールの空気は濁って、喉がぜいぜいして来る。八時!バンドは「蛍の光」を演奏する。終わりである。別れを惜しんで進駐軍は帰る。ダンサーたちも三々五々家路をたどる。

 東京――二十四時間の題目の使命から、ふとダンサーたちの寮、アパートまでも探訪したいのだが、記者に語ったダンサーの言葉を信じ、子供を預けるためや、病気の母を郷里に帰すために五百円、千円と前借して働いているダンサーたちの身の上を思い、記者も焼け跡を照らす三日月に送られながら「良き敗者」の一人として家路をたどった。(十一月十六日付二面)

(森 桂)