随筆集

2021年10月11日

日米開戦スクープの後藤基治さんは戦後5人目の社会部長

 昭和16(1941)年12月8日の真珠湾攻撃・日米開戦をスクープした後藤基治著『開戦と新聞』(毎日ワンズ2021年刊)を読んだ。肩書は「元毎日放送副社長」となっているが、社会部旧友である。

戦後5人目の東京本社社会部長。森正蔵(このHP随筆欄連載筆者・森桂さんの父親)→江口栄治→一色直文→黒崎貞治郎につぎ、1949(昭和24)年11月から51(昭和26)年5月まで1年7か月務めた。

  戦後18代目の社会部長・牧内節男さん(96歳)が「銀座一丁目新聞」に書いている。《後藤さんは私が毎日新聞東京本社で仕えた2代目の社会部長であった。当時48歳である。私より24歳の年上の部長は悠々として大人の風格があった。若いときは特種記者であった。若い記者たちを食事に誘い出して良く話を聞いてくれた。今思えば仕事のしやすい雰囲気づくりに努力されたのだと思う。いい部長であった》

 後藤の生家は、大阪ミナミ法善寺横丁にある関東煮「正弁丹吾亭」である。法善寺横丁を歩いたことのある人なら誰でも知っている有名な店である。

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後藤基治1901~1973
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昭和16(1941)年12月8付東京日日新聞1面

 早大独文科卒、1930(昭和5)年大阪毎日新聞(大毎)入社、社会部。《当時の大阪では、大毎のバッジならモテモテだった。どこの飲み屋もツケがきいた。「朝日に負けるな!」で本山彦一社長時代の「勇往邁進」の気風が生きていて、職場には活気があふれていた》

 釣りが趣味で、「釣り欄」を新設したと書いているが、社会部長徳光伊助(衣城)は、生きのよい社会面をつくった。「精悍な隼の眼」と大阪社会部100年史『記者たちの森』(2002年刊)に紹介されている。大阪北浜の料亭「花外楼」のボンボン。33(昭和8)年10月、お家騒動で徳光とともに社会部記者47人が一斉に辞めた。徳光は敗戦まで北京で「東亜新報」社長を務めたが、同紙の編集局長佐々木金之助(のち読売巨人軍代表)、論説委員高木健夫(元読売新聞「編集手帳」筆者)らは大毎社会部の人材だった。

 後藤は、40年東京本社政治部へ異動、海軍省クラブ「黒潮会」に所属した。41年10月陸軍大将東条英機が総理大臣に就任する際、「東条首班に決定」の号外をいち早く発行した。次いで12月8日の日米開戦スクープ。米内光政海軍大将邸に夜討ち朝駆け。かすかなヒントを特ダネに結びつけた。

 43年10月、フィリピンが日本の軍政から独立すると、後藤は、海軍から「現地報道部長に」と依頼され、1年期限で、毎日新聞に在籍のままマニラ日本大使館の海軍報道部長(中佐待遇)として赴任する。マニラの陸軍報道部には元大毎経済部長・桐原真二中尉(慶大野球部キャプテン→大毎野球団、野球殿堂入り)、現地の「マニラ新聞」は毎日新聞の経営で、200人近い社員が出向していたという。「竹槍では間に合はぬ」の記事で陸軍から懲罰召集された新名丈夫記者を海軍報道班員としてマニラに呼んだこともあった。

 マニラが米軍機の空襲に襲われた最初は44年9月21日。戦況は日増しに悪化、抗日ゲリラも出没するようになった。

 首都マニラのあるルソン島に米軍が上陸したのが45年1月9日。後藤はその直前の44年12月26日、海軍機でマニラを離れた。毎日新聞から出向のマニラ新聞の南条真一編集局長(東京日日社会部長)に「内地に逃げ帰るなど、君は皇国臣民としての自覚が足らん」と怒られたという。

 毎日新聞社も社機でマニラとの社員輸送をしていたが、戦況の悪化で社機の飛来ができなくなった。後藤は社員7人を便乗で帰国させてくれるよう頼まれる。7人は現地応召で陸軍に籍がある。正規の搭乗は後藤1人で、あとの7人は「携行貨物」扱いで、台湾の高雄、台北、福岡の雁ノ巣飛行場経由で羽田空港に着いた。「携行貨物」の1人が西谷市次記者だった。西谷は1955年11月の保守合同で、民主党総務会長の三木武吉と自由党総務会長の大野伴睦秘密会談のきっかけを政治部の西山柳造とともにつくった(『「毎日」の3世紀』)。

 ルソン島の悲劇は伊藤絵理子著『清六の戦争 ある従軍記者の軌跡』に詳しい。「マニラ新聞」は45年1月末に発行を停止して、マニラを脱出する。伊藤記者の曾祖父の弟、「マニラ新聞」取材部長・伊藤清六記者は、陣中新聞をガリ版刷で発行していたが、45年6月30日ルソン島のヤシ林で餓死した。38歳だった。

 南條真一編集局長、陸軍報道班員の桐原真二らフィリピンで殉職した毎日関係者は計56人に上った、と同書にある。

 毎日新聞に復帰した後藤も慌ただしい。履歴をたどると、1945(昭和20)年1月に東京本社南方新聞局事務部長→同年6月南方部長→敗戦後の9月大阪本社に転勤となって、体育部長(運動部の前身)→翌46(昭和21)年2月4日創刊「夕刊新大阪」編集総務兼報道部長。

 「夕刊新大阪」は、編集局長黒崎貞治郎。後藤が引継ぎを受けた東京本社社会部長である。のち「毎日オリオンズ」球団代表。梅木三郎名で「長崎物語」「空の神兵」「戦陣訓の歌」を作詞した。

 整理兼企画部長小谷正一は、井上靖の小説「闘牛」のモデル。整理部長木本正次は映画で大ヒットした「黒部の太陽」の作者。新人記者足立巻一は、「新大阪新聞」をモデルに『夕刊流星号 ある新聞の生涯』(新潮社1981年刊)を書いた。

 後藤は1948(昭和23)年7月西部本社福岡総局長→49年11月東京本社社会部長。そのあと現在の毎日放送(MBS)の立ち上げに携わり、副社長で退任。73(昭和48)年7月逝去、71歳。

 「神風特別攻撃隊」は海軍の大西瀧治郎中将が始め、大西は敗戦の翌日に自決しているが、後藤は出撃の模様をフィリピン・マバラカット飛行場で目撃している。昭和19(1944)年10月24日と書いている。

 《まづ大西さんが悲壮な激励演説をして、そのあと、オンボロの戦闘機5機に大量の爆弾とガソリンを積んで、関(行男)大尉を先頭に、いづれも22、3歳の眉目秀麗な、惜しいような青年ばかりが乗り組んで、飛び立っていった。多量のガソリンは基地へ帰るためでなない、敵艦に体当たりして燃やすためのものである》

 《「大西さん、あんなオンボロ飛行機で若い連中を出して、どうなるんです」

 「なんにもならん、屁の突っ張りにもならない」

 「ぢゃ、なぜ……」

 「さあ、そこだよ。若い連中がどうしてもやらしてくれといふから、己むを得ず俺は取り上げた。この責任はもちろん俺が負ふ。後藤君、日本は滅びるよ……》=月刊「文藝春秋」1958年8月。

 関大尉は新婚で、出陣を前に妻らに遺書を書いている。「若い連中がどうしてもやらしてくれ」はあり得ないことだと思うのだが。=敬称略。

(堤  哲)

※『開戦と新聞』は、毎友会ホームページ2021年8月8日新刊紹介で取り上げられています。