随筆集

2021年10月11日

思い出すままに――森桂さんの「つれづれ抄」⑨

 連載「東京二十四時間」 中

 丑三つ時・犇(ひし)めく行列
    浮浪者と雑魚寝の旅行者
     上野駅・地下道は棲家

(森桂さんの父、元社会部長、森正蔵さん企画の記事から)

 大東京の丑三(うしみつ)時、人という人が、ことごとく寝静まっているというのに、ここだけは何万というおびただしい人々の群が激烈な奔流をつくり、嘆き押し合い、戦い続ける。

 上野駅―濛々と立ちこめる塵埃のなかに、天井の電気時計が午前零時を告げている。夜中から夜明けにかけて、ここを発車する汽車に乗ろうとする人々がもう五列にも、七列にも幅の広い帯をつくって、駅の構内を縦断しているのは、この駅を基点として常磐線、東北線、信越線、上越線、その他無数の支線が放射線に走っているからである。人々はそれぞれの運命に従い、それぞれの切実な用務をもち、それぞれの重そうな荷物を背負い、目ざす汽車に乗れるか乗れないかの瀬戸際に身を曝して必死に嘆き続ける。それは大抵自分の位置よりも前にある人々の後姿に向かって吐き出される――

 「そこの横に立っている奴は何だ。まごまごして列に入りやがったら承知しねえぞ」

 「俺なんか昨夜徹夜で切符を買い、今夜も徹夜で乗ろうってんだ。いい加減な野郎とごちゃまぜにされてたまるもんか」

 今朝はひどい霜だったが、今夜の底冷えからすれば、明日も真っ白な霜だろう。晩秋の霜夜だというのに上野の山と下谷国民学校では、それぞれ何千の人々が切符を狙って待ちくたびれているはずである。

☆ ★ ☆

 人混みに揉まれながら駅長室へ行くと、扉の入口に長い行列が出来ている。何の列ですか、と聞くと、どうしても乗せて貰うために駅長さんに話をする者の列だという。入口の所で揉めごとが始まっている。列内の革のジャンパーを着た青年と、列外のリュックを背負った人物とである。ジャンパー氏が言う。

 「これだけ大勢の人間がちゃんと順序をつくってるんですよ。それを無視していきなり入ろうというのは、ちょっと違いませんか」

 「違わない、私には特別な理由があるのだ」

 「特別の理由なんか問題ではない。列へ入れ」

 「入らん。私は何処へ行っても列になんか入ったことがない」

 なかなかの心臓である。

 この時、列の中から「やれやれ」と声が掛る。さすがの心臓氏もへこたれたものと見え

 「俺は帰る」

 と捨て台詞を残して立ち去る。

☆ ★ ☆

 戻ってそこから地下鉄に向かう。地下道に入ろうとすると、この中にも歩行困難の雑踏である。雑踏だが、それが今までと違うのは、この駅の雑踏に格別の異色を添えている、いわゆる「浮浪者」諸君もいることである。冷たいコンクリートの上に貨物のように横たわっている者もいれば、留置場の人々のように膝を抱え、その膝の中に顔を埋めている者もいる。人というものはすでに敗北を意識した時には、大抵このような座り方をするものであるらしい。新聞紙を四枚広げたささやかな座敷に、親子四人家庭を営んでいる人もある。乳飲み子とその上の女の子が痛々しいほど痩せている―と思った瞬間、おかみさんが矢庭に頭を揚げてハッタとこちらを睨みつけ「何をじろじろ見てるんだ。見世もんじゃないんだよ」と一喝するのだが、その形相の物凄さ、これは堪らぬと踵を返そうとすると、その隣に端座していたおかみさんが「あたしャア、ちっともお腹なんて空いちゃいないんだよ。そこらのルンペンと一緒にされちゃ困るよ」とまたも手痛い一言を浴びせられた。

☆ ★ ☆

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 ここの地下道に踏み込んだ時、便所の臭いが鼻に来たのは、もう動く気力も失せた人々が、傍らの溝で用を足すからだというのが、しばらく歩いているうちに判って来た。ここを棲家としてから長い日々が経ったのと、ここへ来たばかりの人は身体の汚れ方や身装で、一目でそれと判る。それからまた単に家がないばかりに、ここを臥所(ふしど)として昼間は外で働いて来る人たちもいるらしい。白い半襟に紺の上下のモンペを着けた端麗な女性が、冷たいコンクリートに寄りかかって「Holly Bible」と標題のある本を膝に置いてあるのを発見した時は、むしろ茫然とせざるを得なかった。しかもその白足袋の足元には十六、七歳の少女が、いぎたなく眠りこけていたのである。

☆ ★ ☆

 世の人々は「上野の浮浪者」と一言にいうのだが、それが如何にさまざまな異なる人々の集まりであるかは、結局一人々々の運命を深く優しく凝視したうえでなければ判るまい。

 この「上野の浮浪者」に対して、お上がとった手段は何だったか。それは巡査が来て検束して行くことに過ぎなかった。浮浪者は後から後から上野へ上野へと集まる……

 そんなことを考えながら地下道を抜けると、寒い風の中に素足の男の子が、一人汚れた手で蜜柑を剝いている。

 「おいしいかい」

 「あ、おいしいよ、二つ貰ったんだ」 

 「それァよかったな。お腹空いてんのかい」

 「お腹? お腹なんて年中空いてらァ」

 「そうか、そいつァ困ったな。お父さんも、お母さんもいないのかい」 

 「うん、みんな死んじゃったよ」

 外へ出ると廃墟の街は深々と眠っている。 (十一月十七日付二面)