随筆集

2021年10月18日

映画「典子は、今」のサリドマイド障害児典子さんは、本山彦一翁ゆかりの小学校卒業

 西部毎友会は毎年9月に総会を開催し、旧交を温め、親睦を図ってきました。しかし、昨年に続き本年度も「完全に安全であるという確証がない段階での開催は避けるべきだ」と判断し、中止しました。

 そこで本年度も、会員の近況を伝える「冊子」を作成し、全会員の手元に届けることで交流を深めることにいたしました。142名のOB・OGが近況を報告しています。

 西部本社代表だった牧内節男さん(96才)にお送りしたところ、牧内さんがネット上で主宰する「銀座一丁目新聞」に西部本社当時の思い出を綴っていただきました。

 一部を引用すると――

 《私が西部本社の代表であったのは昭和56年6月から昭和61年6月までである。後1年半は西部毎日会館の社長であった。西部本社の守備範囲は山口県から九州、沖縄まである。社員は830人ぐらい居た》

 《西部本社6年半の在任中は楽しかった。代表としては稀有の長さである。思い出はたくさんある。日米野球大会を西部本社が自前で開催して大きな利益を上げた。会場の整理・警備など社員たちが積極的にやってくれた。やる気のある社員たちであった。また鹿児島で開かれた初めての販売店の会合では陸士の先輩のモットーを拝借して「私のモットーは敬神努力浮気楽天です」と挨拶。「浮気をすすめる代表は面白い」と大歓迎を受け、飲めない酒を飲まされた。沖縄には何度も機会を見て訪れ、そのたびに必ず摩文仁の丘を訪れ牛島満大将・長勇中将を偲び、ひめゆりの塔で彼女たちの死を傷んだ。》

 さらに牧内さんは、サリドマイドの女性を採用したことに触れています。

 《赴任して間もない頃、サリドマイドの女性を採用して話題を呼んだ。その朝の市内版のトップに「サリドマイドの少女が電話交換手の仕事を探している」という記事が載った。即座に総務部長に「この娘さんを我が社で採用しろ」と命じた。ところが電話交換室の女性たちが私の所まで来て反対した。そこで上京した際にたまたま見た映画「典子は、今」を見よと勧めた。「其れでも反対と言うなら納得する」と言った。この映画は両腕のないサリドマイド障害児・典子のドキュメンタリーであった。数日後、彼女たちは「わかりました」と返事をした。その後、電話交換業務はデジタルに変わり廃止になり、彼女は総務部に移ったが庶務を器用にこなした。当時、RKBがニュースとして取り上げたり身体障害者団体が毎日新聞をとってくれたり影響が大きかった。》

 映画「典子は今」の辻典子さんは、熊本市碩台小学校の出身です。

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熊本版「支局長からの手紙」(大久保資宏支局長=当時)

 熊本市碩台小学校は、毎日新聞第5代社長の本山彦一翁が生家の土地を熊本市に寄贈して建てられた小学校です。碩台小学校には「栄光の部屋」(顕彰ルーム)があり、本山社長や典子さんの記念品が閲覧できます。

 毎日新聞創刊135年の2007年2月21日、西部本社幹部と西部懇話会幹部(主要販売店)が碩台小学校を表敬訪問し、小学校の一角にある本山彦一翁の「顕彰碑」(高さ約4メートル)に参拝し、遺徳を偲びました。徳富蘇峰が揮毫し、なかなか立派なものです。

 本山元社長は1853年、現在の熊本市で生まれ、時事新報記者、大阪製糖取締役などを経て、明治22(1989)年に大阪毎日新聞の相談役に就任。1903年に社長に就任し、毎日新聞の基礎を作った。「点字毎日」の創刊など業績を広げ、1930年に貴族院議員。1932年逝去。

 「銀座一丁目新聞」を拝読して、「本山彦一翁」の人柄や思い出を毎友会員に紹介したいと、ご報告する次第です。

 牧内さんは「毎日新聞西部本社の同人たち」と題するコラムを

 《『書くことは考えること、生きることと平成9年に始めたネット新聞「銀座一丁目新聞」を今なお続けております。ブログの閲覧数から推定すると確実な読者は多く見て500人ぐらいと思います。私は1人でもいれば続けるつもりです。100歳まであと4年、ネタ探しに苦労する日々で、これも楽しみの一つです。「けふを打つネット新聞秋の暮」悠々》と結んでいます。

(西部毎友会 淵上 忠之)

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創刊135周年の2007年2月、西部本社と西部懇話会幹部が本山彦一翁の顕彰碑に参拝。前列中央が渕上会長(当時、代表)。当時の武田芳明代表室長、加藤信夫編集局長、宋弥治郎販売局長や西部懇話会の久野健治最高顧問、日高忠衛会長らの顔が見える。