随筆集

2021年10月19日

「番記者」が綴る毎日新聞OB、大島理森衆議院議長引退

画像
10月14日の衆院本会議場で解散詔書を読み上げる大島理森衆院議長=西夏生記者撮影

 帝国議会を含め、歴代最長の6年半にわたり衆院議長を務めた大島理森氏(75)が衆院解散に合わせて政界を引退しました。担当記者として大島さんの記憶を綴りたいと思います。

 「明日から朝5時半に赤坂宿舎に行け」

 支局から本社に上がった2008年春、政治部の歓迎会の席で上司からそう言われた。

 翌朝、日の出から間もなくすると、自民党の大島理森国対委員長が宿舎前の坂をのそりと下りてきた。紺のブルゾンジャケットを羽織り、野球帽で寝癖を隠している。スーツ姿の私を一瞥すると、ふんと鼻を鳴らし、そのまま通り過ぎた。追いすがって何度か話しかけたが返答はなく、あとはただ黙って、後ろを付いて歩いた。人気の少ない早朝の赤坂を30分歩いて宿舎に戻っていく時、大島さんが振り返って言った。

 「取材ならこんな時間に来るな。散歩に付き合うなら本気で散歩しに来い」

 翌日からジャージーと運動靴に着替えて宿舎に通った。

 当時は、前年の参院選で自民党が敗北し衆参両院の多数派が異なる「ねじれ国会」だった。与野党攻防の取材に多くの人を割くとの政治部の方針で、着任したばかりの私が国対番を命じられた。

 法案の早期成立を目論む政府と阻止しようとする野党との間に立ち、審議の順番やスケジュールを差配する司令塔役が与党の国対委員長。その動向を取材するのが国対番だが、総理番を経験していない私は、国会運営どころか永田町のイロハも分からない。国会内では「吊るし」「荷崩れ」など耳慣れない用語が飛び交っていた。審議の見通しを大島さんに尋ねても、「明日は曇りのようだな」「政治は一歩一歩じゃ」といった禅問答のような発言ばかり。最初は途方に暮れた。

 朝から晩まで委員長を追いかける日々を重ねるうち、ごくたまに酒席に呼ばれるようになった。だが、その日の記事に必要なファクトは教えてもらえず。代わりに何度も聞かされたのが「政治は人だ」「49%は相手に譲り、51%を目指すのが与党だ」といった言葉だった。

 長年、議運・国対畑を歩き、与野党折衝に政治エネルギーの多くを割いてきた大島さんの至言を、当時の私が咀嚼する余裕は正直、なかった。国会運営に関するネタは、いつも野党・民主党や連立を組む公明党を担当する先輩たちが取ってきて、焦りは募るばかり。大島さんには「お前は目先のことばかりで政治の全体が見えていない。もっと大きな絵を自分で描いてから質問しろ」と叱られた。

 正式な議事の前に法案成立可否の方向性まで調整してしまう「国対」は談合を生み、世論の政治不信の一因になっているのではないか。なぜ「政策」でなく「日程」ばかりに焦点が当たるのか。ネタをもらえないことに内心ふてくされ、大島さんにこのような疑問をぶつけたことがある。多数決が基本の議会制民主主義でありながら、少数派の野党との交渉を重視する大島さんの手法には、政府与党内から「弱腰」との批判がたびたび上がっていることについても何度か尋ねた。

 大島さんはそのたび鼻で笑い、「国会は合意形成の場であると同時に、究極の権力闘争の場でもある」と言った。国会が持つ矛盾する二つの機能のバランスを追求するのが自分の役割との信念を持っていたのだと思う。大島さんはこうも繰り返していた。「権力は、畏れて使うものだ」

 強く印象に残る光景がある。09年3月4日の衆院本会議だ。第2次補正予算関連法案の採決が行われた会議中、私は議場2階にせり出す傍聴席から、採決に反対する自民党の「造反議員」を確認するため目をこらしていた。内閣支持率が急降下する中、乾坤一擲の解散・総選挙のタイミングを逃し続けた麻生太郎政権は追い込まれていた。総額2兆円の定額給付金も世論の支持を得られず、関連法案は野党が多数を占める参院で否決。政府・与党はこの日の衆院本会議で再可決を余儀なくされていた。

 与野党が動議を応酬し、採決は起立と記名の計3回行われた。与党から16人が反対に回れば法案は成立しない。採決のたびカメラのフラッシュが一斉にたかれた。与党席後方に陣取る閣僚や党幹部は、腰を浮かせ議場をキョロキョロと見回していた。

 大島さんは違った。自席で腕を組み微動だにせず、ただ正面をにらむように見据えていた。党の国会運営責任者として同僚議員に全幅の信頼を置き、また投票行動を把握していたのだろう。政治家・大島理森の胆力と矜持を見た気がした。造反は本会議を欠席した元首相と、その側近議員の2人にとどまった。だが、散会後、安堵の表情で言葉を交わす与党議員の中で大島さんの顔に笑みはなかった。「麻生政権を最後まで支え、麻生政権と心中する」と私に語ったのはこの頃だったと記憶している。

 同年夏の衆院選で野党に転落後、大島さんは自民党の幹事長と副総裁を歴任。選挙区を行脚し、地方組織の結束に腐心した。青森県八戸市出身の大島さんは酔うと南部弁が出るが、地元の支持者の前であっても演説ではあまり方言を使わず、意識して共通語で語る。不思議に思い尋ねると、「自分は大学から東京に行かせてもらった。地元の人たちから見れば、特権階級の人間、故郷を捨てた人間と見られているかも知れない」とつぶやいた。大島さんは繊細で、過剰に周囲を気遣う人だ。幹事長時代はストレスから顔面神経麻痺になったと聞く。

 2012年に自民党が政権に復帰すると、党の復興加速化本部長に就任。「東北の復興に命を懸ける」と宣言した。13年10月、東京電力福島第1原発事故を巡り、「避難住民の全員帰還」や事故処理費用を東電が一手に担う「汚染者負担」の原則を転換する提言をまとめた。提言はその後の政府対応の基礎となった。提言の策定後、東電の社長が大島さんに「おかげさまで、ありがとうございました」と電話してきた。大島さんは「君たちのためにやっているわけではない。お礼を言われる筋合いはまったくない」と一喝した。だが、電話を切ると、「原発政策を進めてきた責任は、政治にもあるんだ」と低い声で言った。

 その翌朝の散歩。港区の檜町公園の芝生を歩いていた大島さんが突然立ち止まり、黙り込んでしまった。しばらく六本木の高層ビル群を見上げていた大島さんは、「わしとお前はこんな何不自由ない都会の真ん中にいて、被災者の人たちはあんなプレハブ小屋にいる………あの仮設住宅で何年も暮らすことを想像してみろ」と言った後、また絶句した。

 大島さんは15年に衆院議長に就任。与野党を超え「立法府」としての立場を意識した発言が以前にも増して多くなった。「国会には行政監視の重要な機能がある」と語り、行政府との緊張関係を求めた。18年7月、森友学園を巡る財務省の決裁文書改ざんなど、政府による相次ぐ公文書隠蔽や誤りの事案を受けて、「民主主義の根幹を揺るがす問題」と非難する議長所感を発表する。「間違った情報を国会に提出することは国民を欺く行為だ」と憤った。政府の拙速をたびたび戒めた大島さんだったが、議長時代は、幹事長や副総裁として党を率いた際に「自らも政策実現を急ぎ『熟議』を軽んじることがあったのではないか」と省みる時間だった。

 議長時代の成果を聞くと必ず、衆院の1票の格差を是正する選挙制度改革(16年)と、衆参両院の全会派による会議を主導した天皇退位の特例法整備(17年)を挙げる。いずれも「政争の具にせず」「速やかに」合意を得ることが求められ、40年近くにわたり与野党に人脈を築いた議員人生のすべてを注いだという。皇室への尊崇の念を隠さず、退位が実現し上皇陛下からねぎらいの言葉をかけられたときは涙を流した。陛下の言葉で最も深く胸に刻んでいるのは「戦争を知る人がだいぶ少なくなりましたね」という一言だという。宮中に行った日の夜はよく、赤坂のとびきり安いチェーン店の居酒屋に記者を誘った。そして「下界のお前たちの話を聞こうと思ってな」と悪ぶった。三権の長になっても地に足をつけ続けるための儀式のように見えた。

 私は大島さんから大きな特ダネをもらうことはついぞなかった。だが、国会内外で丸い背中を追いかけ回す日々が1年近く経った09年初めのある日、衆議院2階の廊下で「お前は最初、右も左も分かっていなかったが、最近は生意気にわしの悪口を書くようになったな」と言われたことがある。そして大島さんは近くの議員を呼び止め、私を指さし「こいつ、わしの番記者だ」と言った。そのとき胸に抱いた感情を私は一生忘れないと思う。

 衆院が解散された10月14日が、大島さんが衆院に登院する最後の日だった。議員は解散と同時にそれぞれの選挙区に走り、午後5時過ぎに大島さんが議長室を出てきたとき院内に残っている者はいなかった。代わりに多くの衆院職員と国会衛視が玄関に集まり、拍手と敬礼で議長を見送った。「大島委員長」や「大島議長」を院内で取材していた時はいつも、大島さんの前に立ちはだかり私たち記者の「敵」だった衛視さんたちがこの日は、「もっと近くに行けよ」と言うようにカメラを構える私の背中をぐっと押した。そのとき、大島さんが国会からいなくなるのだなと感じ、たまらなく寂しくなった。

(政治部 高本 耕太)

画像
大島理森さんは衆議院議長当時の2017年11月、毎友会総会に出席、「天皇退位特例法成立過程から考える立法府の現状」のテーマで講演。大島さんは広告局で3年間、勤務した後、青森県議を経て衆議院議員12期。社会人の第一歩を踏み出した当時の思い出話をまじえ、立法府が国民の総意をとりまとめる役割を果たした経過を説明した。