随筆集

2021年12月15日

平嶋彰彦のエッセイ 「東京ラビリンス」のあとさき その17(後編)(抜粋)

 文・写真 平嶋彰彦 毎月14日更新

 全文は http://blog.livedoor.jp/tokinowasuremono/archives/53454525.html

 サトイモの花をきっかけに読み直したもう一冊が、坪井洋文の『イモと日本人—民俗文化論の課題』である。ここでいうイモとはサトイモのことである。日本の正月を祝う儀礼食がどのように変遷したかをたどり、イネの文化とは別に、イモに象徴される畑作の文化ともいうべき価値体系があることを立証しようとした異色の論考として知られる。そのなかに次のような思いがけない記述があるのをみつけた。

 千葉県安房郡冨崎村では、不幸のあった年には里芋だけは種子を切るといって、自分の家の里芋はすべて他家へ貰ってもらい、種子を絶やしてしまってから他から貰って植えるといっている。

 この民俗事例を分析して、坪井洋文は「里芋に対してある種の霊的感覚とでもいうべき霊質の存在を認めた一つの証拠となるだろう」と論じている。思いがけない記述というのは、この冨崎村は現在の館山市布良付近のことで、私の実家はそれより西側になるのだが、わずか6キロほどしか離れていないからである。私が生まれ育った集落には冨崎やその近くから嫁いだ人もいるが、サトイモを特別視するそうした風習については耳にしたことがない。

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ニラの花。アリが蜜を吸っている。2021.08.29

 サトイモはタネイモの周りにたくさんのコイモやマゴイモをつけることから、子孫繁盛の象徴とされた。それにとどまらず、作柄の良し悪しにより、その家の吉凶を占うようなこともあった、ということかもかもしれない。冨崎村では、悪いことの続くのを避けるため、サトイモの「種子を切る」とか「種子を絶やす」とかした。とはいっても、実際は廃棄も焼却もしないで、よその家に譲っている。どういうわけか。サトイモは植えつける畑を換えれば、衰えようとする生命力を復活させると考えていたのではないだろうか。

 サトイモが特別視された作物であることについては、思いあたることがないわけでもない。子どものころ、正月の雑煮やお節料理の煮しめには、かならずサトイモが入っていた。というよりも、正月の料理というと、餅の次に思い浮かぶのはサトイモなのである。雑煮も煮しめもハレの日の特別な御馳走だった。まず仏さまと神さまにお供えをし、その前で家族そろって食事をとった。

 村ではほとんどの家がサトイモを栽培していた。しかし、作付け量は、どこの家もごくわずかだった。サトイモは日常的に大事な食料というよりも、ハレの日に欠かせない食料だったように思われる。さらにいうなら、サトイモを畑作栽培の代表的作物とする忘れられた集合意識が働いていたような気がしないでもない。

 サトイモは正月のみならず、盂蘭盆の行事にも欠かせなかった。お盆には盆棚を作る。私の家では、仏壇の前に棚を設けて、コメと水にミソハギの枝、スイカなどの果物のほか、サトイモの葉を供え皿にして、その上にナスとキューリを飾っていた。

 母親の話では、キューリは馬、ナスは牛の見立てだという。祖先の霊は馬に乗るか牛(車)に乗るかして、あの世とこの世を行き来すると想像していたのである。8月13日と16日の夕方に盆の迎え火と送り火を焚く。その炎のなかに、ミソハギの枝で水を掛けながら、コメ粒を撒き、「ショウロゥ(精霊)さま、ショウロゥさま、ヤンゴメ(焼米)食いくい、ミズ(水)飲みのみ、来さっしぇ、来さっしぇ(帰らっしぇ、帰らっしぇ)」と唱えるのである。

 私の家では、サトイモの葉を供え皿にしていたが、地方によってはハスの葉を用いていたようである。サトイモの葉はハスの葉の代用で、蓮華の台のつもりではなかっただろうか。蓮華の台に坐すのは、馬に乗るか牛(車)に乗るかした先祖の霊、ほかならぬ神さま仏さまということにならないだろうか。