随筆集

2021年12月27日

山内以九士氏の打率早見表があった50年前の運動部——元バイト学生・広島経済大渡辺勇一教授の思い出

 毎日新聞OBの諸岡達一さんらが1999年に立ち上げた「野球文化學會」。その第5回研究大会が12月19日「野球と記録」をテーマに、オンラインで開かれた。「記録の神様」野球殿堂入りの山内以九士さん(1902~72,慶大卒)について孫の読売新聞記者・室靖治さん(54歳)が講演した。その中で山内さんが作って自費出版した、打率早見表「ベースボール・レディ・レコナー」の誕生秘話が面白かった。今では電卓でピッポッパだが、山内さんはタイガー計算機を使って700打数300安打まで計算、350ページに、下4ケタの数字15万8500個を収めた。両リーグの勝敗表の勝率やベスト10の打率算出には必需品だった。防御率の一覧表もあった気がする。

画像
「ベースボール・レディ・レコナー」
画像
『野球殿堂』2018(野球殿堂博物館発行)から

 山内さんは1939(昭和14)年のセンバツ(当時は中等学校野球大会)を記者席で取材、大毎の記者から「打率早見表があったら」と言われたのがヒントになって、膨大な作業に取り掛かかったという。

 「レコナー」を実際に使うのは、運動部の内勤、アルバイトの学生がもっぱらだった。その1人、元中国新聞運動部長、広島経済大学教授で野球文化學會会員でもある渡辺勇一さん(70歳)に《「レコナー」の記憶》を尋ねたら、以下の原稿が届いた。1971~74年の東京本社運動部が浮き彫りされている。

(堤 哲)

末安運動部長、美嶺さん、池さん、泰さん、栄太郎さん、呉さん……

 ご質問の小生の毎日運動部アルバイト時代の「レコーナー」(注:運動部ではレコナーでなく「レコーナー」と呼んでいた)の件ですが、ちょうど50年前のことであり、主な記憶は途切れてしまっています。おぼろげながら、当時の運動部の雰囲気をお伝えします。

 「レコーナー」は「ベースボール・レディー・レコーナー」が正式な書名かと思います。ちょうど、国語辞典や英語辞書のような感じで、相当使い込まれていたようで、一部擦り切れそうになっていました。歴代、丁寧に使い続かれていたようでした。

 私は國學院大学2年の1971年春、竹橋の毎日東京本社運動部でプロ野球キャップだった丸谷亘記者(元毎日書道会専務理事、2009年没76歳)に身の振り方を相談していました。今でいう仮面浪人で、2度目の早稲田挑戦に失敗したのです。丸谷さんは母親の遠縁にあたります。新聞記者志望であること、それも運動記者を目指していることなどを話すと、運動部のアルバイトを勧めてくれました。すぐに、デスクの内海邦夫さんに引き合わせ即決でした。

 運動部アルバイトは内勤と外勤に分かれ、外勤はプロ野球の球場記者席でスコアを付けて「ボックススコア」を電話送稿します。たまたま野球のスコアがつけられた私は、外勤バイトからのスタートでした。とはいえ、すべての球場に派遣するわけではなく、3人いたバイト生がシフト勤務で後楽園、神宮、川﨑、東京スタジアムへ記者と同行していました。

 器用に立ち回る私は、外回りの無い日は「坊や」と呼ばれる内勤のバイト補助も担当しました。原稿を整理部やラ・テ部に運んだり、スクラップしたりする役目でした。そんな時「レコーナー」と出会いました。打率計算に用いる便利な小冊子でした。まだ電卓は普及しておらず、計算はもっぱら筆算でした。野球のまとめモノの記事や大学野球出稿の際などに求められることがありました。

 数学が苦手で往生している時、魔法の冊子を手渡してくれたのは古武士然とした鈴木美嶺さんでした。しばらくして野球規則委員や東大野球部OBと知り、驚いたものでした。「これを使ってみれば、計算が早いよ」と教えていただき小躍りしたものでした。縦に打数、横に安打数が並び、交わるところに打率が出てきた記憶があります。「レコーナー」はその後も重宝しました。同時に、美嶺さんの笑顔を思い出します。当時は、共同や時事からの記録配信はなく、自前で計算していたように思います。

 貧乏学生はシーズン中、竹橋の社員食堂で夕食や夜食をとるのが常。ナイターのバイト後、厚かましく風呂に入ったこともありました。政治部・西山太吉さんの沖縄密約事件の頃でした。

 アルバイトは1973年、4年の秋まで続けました。外勤、内勤とも楽しく、何より新聞社編集局のにおいが好きでした。時には出先の記者からの電話送稿をバイト学生が受けることもありました。単行本大(B6判)のザラ紙を横にして、3枚ずつカーボン用紙を入れて待機します。電話が鳴るとおもむろに原稿を受けるのです。「松杉の松」「山冠に…」など随分、字の解釈を覚えさせてもらいました。1972年ミュンヘン・オリンピックでは西独からの国際電話を受けこともありました。

 当時の毎日運動部は多士済々でした。今でも即座にお名前が出てきます。

 覚えているだけで部長の末安輝雄さん、部長待遇の池口康雄さん、鈴木美嶺さん、副部長(デスク)は内海邦夫さん、石川泰司さん、岡野栄太郎さん、浮田裕之さん、呉政男さん、松尾俊治さん、中村尚喜さん、部員では相沢裕文さん、丸谷亘さん、堀浩さん、矢野博一さん、戸田駿さん、荒井義行さん、西川治一さん、中沢潔さん、須田泰明さん、伊東春雄さん、六車護さん、鈴木志津子さんが浮かんできます。もう一人、全く運動部員らしくない異色の記者だったのが、増田滋さんでした。

 上記の皆さんには大変よくしていただきました。相撲や水泳担当の中沢さんはご夫婦そろって母校、広島国泰寺高校の先輩でした。早大野球部出身の最年少、六車さんにはお酒の手ほどきをしてもらいました。岡野さんが元陸上五輪選手だったとは知らず、紅一点の鈴木お志津さんは横綱柏戸のファンでした。真夏の都市対抗野球では、お弁当をいただきに後楽園球場へ日参したものでした。

 アルバイトの合間にマスコミ採用採用試験の勉強にも取り組んでいました。生きた教材は目の前にごろごろいます。とりわけ、作文指導をしていただいたのが隣の社会部デスクの前田利郎さん(1992年没63歳)でした。激務の合間に作文のテーマを出題し、添削してくれました。「結論をアタマに出せ」「自分のエピソードを盛りこめ」の教えを叩き込まれました。隣席の石谷竜生デスク(2007年没79歳)は國學院の先輩でした。記者の心構えを説いてくれました。おかげで、地元の中国新聞社と神戸新聞社(デイリースポーツ)から内定を得て、中国を選びました。後年、甲子園の高校野球取材に出向いた際、梅田の毎日大阪本社を訪ねて挨拶に伺いました。編集局長の前田さんが歓待してくれたのは言うまでもありません。

 毎日東京運動部で育てていただいた私は1974年、中国新聞社に入社し81年から長く運動部に所属しました。ミュンヘンから電話で原稿を受けた大阪運動部の長岡民男さんには、陸上取材でお世話になったものです。1990年から4年間、東京支社編集部のスポーツ担当として東京でも勤務しました。パレスサイドビルの「オリオンズ」で懐かしさに浸ったものでした。

 運動部長などを経て、60歳で中国新聞社を定年退職した後、広島経済大学にスポーツ経営学科教授として招かれました。スポーツジャーナリズムなどを講じてきました。それも2022年春、終えるつもりです。堤さんからの「レコーナー」の問い合わせを機に、ちょうど半世紀前を思い出すことができました。今日があるのは、毎日東京運動部のお陰と感謝しています。

 毎日運動部のアルバイトはその後、早大アナウンス研究会の学生たちに引き継がれたようです。私の5代後のバイト生に同じ広島出身の岡畠鉄也君がいました。中沢先輩から「広島の学生が、中国の入社試験を受ける。協力してやってよ」と電話をいただき、尽力したことは言うまでもありません。岡畠君は現在、中国新聞社社長に昇進しています。余談ですが。

(広島経済大学教授・渡辺勇一)

 名前が出た当時の運動部員を背番号順に整理すると――。43呉政男、45増田滋・中村尚喜、48池口康雄・堀浩、49末安輝雄・鈴木美嶺、50松尾俊治・内海邦夫、52石川泰司・矢野博一・伊東春雄、53岡野栄太郎、54浮田裕之、55丸谷亘、59相沢裕文・59戸田駿、60中沢潔、61荒井義行、62西川治一、65須田泰明、68鈴木志津子、70六車護。多士済々である。

 健在は浮田さん(92歳)、中沢さん(87歳)、荒井さん(84歳)……。