随筆集

2022年1月11日

寺井宏君(元西部本社制作局長)を偲ぶ

《元スポーツニッポン新聞社社長、牧内節男さんの「銀座一丁目新聞」から転載》

 毎日新聞で一緒の仕事をした寺井宏君がなくなった(昨年12月10日・享年85歳)。私は弔電と花輪を送った。夫人谷子さんが主宰する俳誌「自鳴鐘」1月号によれば「俳句結社を主宰するという仕事と主婦、妻、母と努めてこられたのも共通する価値観と包容力のおかげである」述べている。当日式場の模様を当時西部本社整理部にいた早原順一君が毎友会の追悼録で書いている。

 <式場より> 小倉北区北部の文教地区にある葬儀場は、寺井さんの自宅と、岳父の故・横山白虹氏の自宅近く。棺の中の寺井さんは、穏やかで、昇華したような姿に思えた。両脇には牧内節男氏、2人のご子息の勤務先会社、谷子夫人が主宰する俳誌「自鳴鐘」の同人から寄せられた供花。受付横には、社の同僚たちと語り飲む姿、お孫さんと遊ぶ生前の写真が飾られ、その下に数冊の文庫本、開いたままのページは読みかけだったのか…。

 私が西部本社代表のときは私の部屋に来るのはもっぱら編集局長で、編集局次長だった寺井君とはそう頻繁に顔を合わせたわけではない。だが俳人、医者であり北九州市の著名人であった横山白虹が義父だからそれなりの親交はあった。その寺井君を心配させる出来事があった。平成13年、私はネット上で「銀座俳句道場」を設立、選者は寺井谷子さん。当時谷子さんはNHKの俳句の選者をしておられた。その縁でその俳句の番組に出演した。寺井さんが私の「ひまわりの先に1945年の恋」の句を認めていただいたのがきっかけであった。平成13年8月18日放映のNHKテレビ「NHK俳壇」にゲスト出演した。当時を思い返してみると冷や汗が出る。寺井君は終始ハラハラ・ドキドキして見ていたと後で聞いた。

 司会は好本恵さん。寺井さんは「銀座俳句道場」の選者。その人の「出よ」の指示をむげにことわるわけにもいかず、恥を忍んだ。「ひまわり」の句は平成13年8月の兼題のひとつ。昭和20年の夏、私は陸軍士官学校の最上級生で、長期演習の名目で長野県北佐久郡の協和村の小学校で寝起きして訓練に励んだ。演習の合間にふと見かけた可憐な乙女へあわい恋心を抱いた。声をかけたことも話し掛けたこともない。19歳の若者はたわいもなく心をときめかした。それが思いもかけず句になった。この句を寺井さんが激賞した。この一句を、私は胸中の平和句集に「記憶」するとまで言ってくれた。

 好本さんの巧みな司会と歯切れのよい寺井さんの解説、鮮やかな添削で30分はあっという間に過ぎた。視聴者からの投稿句を6句もコメントする機会を与えられた。自分自身が試されていると感じた。季語がすっかり溶け込んでいる句があり、感心した。これまで季語の座りごこちが悪い句ばかりしか出来なったので、目が開かれる思いがした。

 寺井君よ。ありがとう。ご冥福を心からお祈りする。