随筆集

2022年1月14日

平嶋彰彦のエッセイ 「東京ラビリンス」のあとさき その18 (抜粋)根津新坂のS字曲線と根津清水谷の牡丹燈籠

 文・写真 平嶋彰彦 毎月14日更新。  全文は http://blog.livedoor.jp/tokinowasuremono/archives/53454526.html

 根津神社南側の大鳥居のあたりから西方に向かう急こう配の坂道がある。本郷通りと根津谷をむすぶ新しい坂なので、新坂と呼ばれている、と現地説明板には書かれている。「江戸切絵図」には見あたらないから、明治時代になって造られたのである。

 この坂を上りきる手前に、大正末か昭和初期に建てられたと思われる西洋風の木造住宅が何年か前まで残っていた。街歩きの通りすがりにたまたま見つけたのだが、塀も門もないこの家のひっそりした佇まいに、言葉にならない懐かしさを覚えた。半世紀以上も前に、郷里の館山でみた街並みをふと思い出したのである。

 森鴎外の『青年』にこの坂が出てくるという。鴎外は『山椒大夫』と『鈴木藤吉郎』しか読んだことがない。まさかと思ったが、不肖の息子の本棚を見ると、文庫本の鴎外全集がならんでいた。

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根津新坂。西洋建築風の住宅。現存しない。根津1丁目。2009.12.14

 主人公の純一は、本郷三丁目で電車を降りると、本郷通りを歩き、追分から高等学校(東大教養学部の前身)に沿って右に曲がり、訪問先の根津権現の表坂上にある下宿屋の前にたどり着いた。そこが訪問先である。すぐそばがT字路になっていて、右折すると、左手に出来たばかりの会堂(東京聖テモテ教会)があった。約束の時間にまだ早すぎた。そこで純一は今坂すなわち根津権現の表坂の方にむかって歩き、坂の上にでた。

 割合に幅の広いこの坂はSの字をぞんざいに書いたように屈曲して附いている。純一は坂の上で足を留めて向うを見た。

 灰色の薄雲をしている空の下では、同じ灰色に見えて、しかも透き徹った空気に浸されて、向うの上野の山と自分の立っている向うが岡との間の人家の群れが見える。

 『青年』は鴎外の49歳のときの執筆で、1910(明治43)年3月から雑誌『スバル』に連載された。日露戦争の終結から5年後である。この年には大逆事件が起きている。

 作品名の『青年』は小説家を志望する地方出身の青年純一のことだが、鴎外自身の青年時代をコラージュ風に点描するだけでなく、急激な西欧化と富国強兵に悲鳴をあげる近代日本の姿を折り重ねた印象がある。「Sの字をぞんざいに書いたように屈曲」した坂とは、鴎外自身の半生であると同時に、明治という時代の血の轍であっかもしれない。

 「上野の山」は忍が丘と呼ばれた。「向うが丘」(向丘)は忍が丘の向かいにある丘の意味で、現在の本郷から駒込一帯の総称である。この二つの丘陵の間には、連載その12 で書いた藍染川(谷戸川)が、そのころはまだ、北から南に流れ、不忍池に注いでいた。

 「上野の山」では1877(明治10)年から殖産興業政策として内国博覧会が開催され、第三回の1890年には、東京音楽学校(現・東京芸術大学)が開校した。東京大学の創設は第一回内国博覧会と同じ1877年である。当初、「向うが丘」(旧金沢藩上屋敷)に置かれたのは4学部のうち医学部だけだったが、1884年と85年に、それまで神田錦町にあった法学部・文学部と理学部が移転してきた。

 新坂の上からは、上野と向丘の間に「人家の群れ」が見わたせた。藍染川の流れを境に手前が根津で、その向うが谷中である。坂を下りたところに根津権現の大鳥居があった。

 境内に入ると、社殿の縁には、ねんねこ袢纏(ばんてん)の中へ赤ん坊を負って、手拭の鉢巻きをした小娘が腰を掛けて、寒そうに体を竦(すく)めている。純一は拝む気にもなれぬので、小さい門を左の方へ出ると、溝のような池があって、向うの小高い処には常盤木の間に葉の黄ばんだ木の雑じった木立がある。濁ってきたない池の水の、所々に泡の浮いているのを見ると、厭になったので、急いで裏門を出た。

 「溝のような池」とその「向うの小高い処」いうのは、現在のつつじ苑のあたりのことである。続けて、鴎外は「濁ってきたない池の所々には泡の浮いている」と書いている。小説のなかの情景描写といってしまえばそれまでだが、『青年』を執筆した1910(明治43)年のころ、根津神社の境内は、見事に整えられた現在の景観とちがって、かなり荒廃していたことがうかがわれる(以下略)。

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根津神社。観光客でにぎわうつつじ苑。根津1-28-9。2021.04.15