随筆集

2022年1月24日

新婚旅行を中止してリンチ殺人事件の取材にあたった小畑和彦さん~『彼は早稲田で死んだ』著者・元朝日新聞記者との交流~

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1972年11月29日毎日新聞朝刊社会面
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小畑和彦さん
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 50年前の1972(昭和47)年11月8日夜、早稲田大学文学部構内の自治会室で、第一文学部2年生の川口大三郎さん(20歳)が、「革マル派」学生たちのリンチにより殺され、遺体が東大病院の前に遺棄されるという事件があった。当時第一文学部1年生だった元朝日新聞記者・樋田毅さん(69歳)が『彼は早稲田で死んだ―大学構内リンチ殺人事件の永遠』(文藝春秋社2021年刊)を出版した。

 この事件が発生した時、4方面新宿署担当の小畑和彦さん(当時28歳)は新婚旅行中だった。事件前日の11月7日、高校時代に知り合った女性と母校早大の大隈会館で結婚式をあげ、2泊3日の予定で信州・木曽路へ新婚旅行に出掛けた。

 朝、温泉宿のテレビで事件を知った。《電話に出たデスクは「いいよ。新婚旅行を続けろよ」と言った。しかし、私はいても立ってもいられなかった。女房に有無を言わさず新婚旅行を切り上げ、国鉄中央線(当時)の新宿駅に着くと女房と別れ、すぐに早大の取材現場に駆け付けた。新居に落ち着く間もなく、結婚早々から激しい取材が始まり、記者クラブや本社に止まり込むのは当たり前、帰宅できても午前様の日々が始まった》と、現在もインターネット上に残る「新聞記者になりたい人のための入門講座」にこうある。

 小畑さんは、第一文学部の学生大会で革マル執行部をリコールして新自治会臨時執行部の委員長(その後、正式に委員長)になった樋田さんを紹介する記事を書いている。

  純粋な行動こそ
    “20日間”が彼を強くした
      ―ある学生の軌跡―

 《H君(20)、文学部一年生。暫定自治会規約などの議案書作成者の一人だ。小柄だが特徴のある長髪、あごヒゲをふりかざし、千人を超す学生を前に熱弁をふるった。しかし川口君が殺される前まではコンパ(飲み会)を愛し、酒に酔っては友と肩を組む学生だった。彼を知る友人は「ヤツはこの20日間で本当に変わった」》

 《だが、問題解決はこれからだ。「どのセクトにも支配されず全学生の総意を反映する自治会を作りたい」と断言するH君。本当の戦いはこれから始まる》

 樋田さんは、「H君は変わった」の見出しを付けて著書に取り込んだ。

 《記事は「愛知県の田舎町」から出てきた青年が、早稲田での学生運動で様々な経験をして、成長していくという物語に仕立てられていた。
気恥ずかしくもあったが、それまで意識したことのなかった自分に、その記事を通して出会えたようで新鮮だった。「事件を伝えるだけではなく、無名の人にも光を当てる記者の仕事は面白い」と素直に思えた。この体験は、私が新聞記者を志すきっかけとなった》

 その後、樋田さんも10人前後の革マル派に鉄パイプで襲撃され、救急車で病院に搬送された。1カ月は自力で歩けないほどの重傷だった。

 《数年後、私が大阪本社に転勤していたとき、彼から「朝日新聞記者として入社が決まった」と連絡があった。大阪に行く用があるとのことで、一晩、千里ニュータウンのわが家に招き、合格のお祝いをすることになった》

 《大学4年生のときと次の年、私がいた毎日新聞を受験しようとしたが、経営難で採用中止のためチャンスがなかった。このため朝日新聞を受験し、合格したのだという。面接では本来、毎日新聞希望だったことなどを包み隠さず打ち明け、私から取材された経験なども話したという。そこまで聞いて私は胸がいっぱいになり、言葉が出なくなった記憶がある》

 《彼とはその後も交流が続き、結婚する女性を紹介されたり、小料理屋で楽しく酒を酌み交わしたりしてきた。彼も私と同様に社会部を中心に記者生活を送り、大事件の渦中にいたこともある。…(高知)支局長として地方に赴いたときには「遊びに来ませんか」と定年後の私に書いてきたこともあった。その彼も今年(2012年)定年を迎える。いったん小休止し、再び意義ある定年後ライフを送ってほしい》=「新聞記者になりたい人のための入門講座」

 68入社の小畑和彦さんとは、水戸支局で一緒となり、65入社佐々木宏人さんと64入社の小生の3人で同じ下宿にいた。小畑さんが体調を崩して入院した際、言われた言葉がまだ耳に残っている。「ツーさんに酒を教わらなければよかった」と。

 2012年4月1日逝去、67歳だった。

(堤  哲)