2022年2月4日
元中部本社代表、佐々木宏人さんがオヤジさんの旧著『ブンヤ酔虎伝』紹介
先日、SNSのfacebookに竹橋の国立近代美術館で開かれていた、毎日新聞社も主催者に名を連ねる「柳宗悦没後60年記念展 民藝の100年」を見に行ったことをアップした。
この中でこの展覧会を見に行ったワケを、当方のオヤジ〈佐々木芳人、1938(昭和13)年毎日新聞入社、社会部などを経て1967(昭和42)年出版局次長で定年退社〉が、民藝の骨とう品が好きで、柳宗悦さんの創立した日本民藝協会のメンバーだったことを記した。それが機縁で親父の本「ブンヤ酔虎伝 エンピツ・酒・古道具少し」(昭和42刊)を久しぶりに書庫から出して目を通し、柳さんが亡くなったその日の朝〈1971(昭和36)年5月3日〉に、京王井の頭線駒場東大前駅近くにある日本民芸館を偶然訪れたことがあるのを知ったと書いた。
この記事を目ざとく見つけた当欄の管理人?高尾義彦さん(元監査役)が、「オヤジさんの本のことを書いて下さい。旧刊紹介で---。」
「旧刊紹介、そんなのあり?」と思ったが、数十年ぶりでこの本を全部、読み返してみた。ところがセガレがいうのもなんだけど、べらぼうに面白い。本のほとんどが親父30年勤めて出会った戦前・戦後の社会部、政治部、運動部、外信部などの記者たちの酒にからんだ“奇岩怪石”の武勇伝ばかり。アマゾンで探したが売っていないようだ。
ほとんどがローマ字のイニシアルで書いてあるので、今となっては誰とわからない記者がほとんど。でも蕎麦屋で三人前を頼んでペロリと平らげるKさんは、大食漢で文化人まで広い人脈を持って“食の本”を何冊も出した東京編集局長、常務をやった狩野近雄さんだろう。
おかしいのは戦前の政治部記者のAさん、彼が貴族院と衆議院どちらの担当になるか議員の注目の的だったという。最前列の記者席で手鼻をかみ、そのネバッコイものが下の議員席に飛んでくるのだという。この人、酒を飲むと時間の概念がなくなり夜中の2時でも3時でも平気で政治家や仲間の記者の家の玄関をたたいたという。
戦後の有楽町時代の毎日新聞で社会部記者二人が、血だらけで上がって来てソファーに寝込んだのはいいが、翌朝起こされて、なんで血だらけなのか覚えていない。夕方、飲み屋の女将さんが会社に心配して電話をかけてきた。二人が激論を交わして殴り合いを始めて血だらけになりながら、会社に上がったのだという。
こういう武勇伝がゴロゴロ。
だけどそれだけではない。親父が静岡支局長だった当時、東海道線で事故の原稿を通信部主任の若い奥さんが、赤ちゃんを背負い、支局に届けた。その第一声が「締め切りに間に合うでしょうか?」。家族ぐるみの通信部記者の哀歓を書き記している。
自分の体験で新婚時代、台風の来襲で駆け出し時代、社会部警視庁クラブで被害状況を本社に送っていて、大森の川沿いの貸家に帰れず、ようやく翌日の夕刻、自宅に帰ってみたら「畳を上げた部屋の片隅に、たった一人、女房はぐったり、しょんぼり座っていた」。母にこの話を聞いたことがある。
女性記者の話には笑った。世間的に名の知れた美人の記者の結婚話。彼女にウインクを送る同僚記者が多数いる中で、ある記者が電撃的に彼女を喫茶店に呼び出しポケットから小瓶を見せ「これは青酸カリです。あなたにプロポーズします。断られたらこれを飲みます」。彼女はOKを出すが、実は小瓶の中身はコーヒーの粉だった―という。二人の顔が何となくわかる。プロポーズしたと思われる相手の顔を思い出すと可笑しい。
携帯電話もなく、電話も数軒に一台の時代。まだまだ新聞が情報源のNO1の時代。戦中・戦後の苦難の時代はあったが、良き仲間、良き社風の中で、オヤジたちは良き時代を過ごしたな―、としみじみ思う。
この本の中でオヤジは「一枚の名刺で、下町のおっさんであれ、政財界の大御所であれ、『やあ・やあ』『ようよう』とこころよく会ってもらえるのも、その記者自身の力ではなく、記者の背後にある、何百万の読者をもつ、毎日新聞の力なのである」と、会社の定年後のさびしそうな仲間の姿を見て記している。当方も何回か聞かされた。
今の時代、この言葉が無力ではないことを信じたい。
(佐々木 宏人)
※「ブンヤ酔虎伝 エンピツ・酒・古道具少し」は昭和42年6月5日刊・鶴書房、と牧内節男さんの「銀座一丁目新聞」。2016年1月20日号に掲載された鯨岡阿美子さんの追悼録によると――
「昭和18年から昭和21年の初めに毎日新聞に一人の女性記者がいた。その名を鯨岡阿美子という。社会部先輩の佐々木芳人さんはその著書『エンピツ・酒・古道具少し』でこう表現する。「今は独立してフアッション界で仕事をしているが、かつてNTVでプロデユーサーとして名のあった鯨岡阿美子さんは、政治部に居た。しばらくして、女性タイムスか女性新聞か、名前は失念したが編集責任者となり活躍していた。当時からキリキリシャンとした美しさとキリキリシャンとした仕事ぶりが強く印象に残っている」
佐々木さんとは昭和23年12月23日夜、巣鴨刑務所に張りこみ、東条英機元首相ら7人が処刑される模様を塀の外から取材したことがある。私が入社した時はすでに鯨岡さんは退社されていたが鯨岡さんの印象は佐々木さんと同じく”キリキリシャン“とした女性であった。後に知ったことだが、ご亭主が社内でも有名な名文家の古波蔵保好さん(社会部・論説委員)と聞いて変に納得したのを覚えている。