随筆集

2022年2月15日

平嶋彰彦のエッセイ 「東京ラビリンス」のあとさき その18 根津新坂のS字曲線と根津清水谷の牡丹燈籠(後編)(抜粋)

 文・写真 平嶋彰彦 毎月14日更新
 全文は http://blog.livedoor.jp/tokinowasuremono/archives/53477870.html

 根津権現の周りでは、明治維新を迎える段階で、およそ30軒の遊女屋が営業を続けていたとのことだが、東京府のお墨付きを得たことで、新吉原と同様の営業が大っぴらに出来るようになった。しかし、順風満帆とみえた色町の繫盛は長くは続かなかった。『日本歴史地名大系13 東京の地名』には、その後の顛末が次のように書かれている。

 同12[明治12・1880(ママ)]年には妓楼の数は90軒に増加し、遊女の数も128人から574人に急増した。(中略)しかし、同年、東京大学の開校の件が伝えられ、にわかに遊郭移転問題が浮上した。その結果、同21年、花街は深川区洲崎弁天町(現江東区)に移転した。

 「東京大学の開校」が具体的に何を指すのか分かりにくいが、この「東京大学」というのは、先に述べた『青年』の冒頭に出てくる高等学校(東京第一高等学校)のことではないかと思われる。現在は駒場にある東京大学教養学部がその後身である。

 東京第一高等学校は東京第一高等中学校の改称で、1889(明治22)年、この高等中学校が向ヶ丘弥生町(現在の弥生1、2丁目)に移転してくることになった。

 ここは明治維新までは水戸藩邸と小笠原信濃守の下屋敷があったところだが、台地を下りた目と鼻の先に根津遊郭という江戸時代からの悪所があった。それが問題視された。その結果、1888年に根津遊郭は洲崎弁天町(江東区東陽1丁目)に移転することを余儀なくされたのである。

 『青年』の純一は、本郷追分から高等学校の塀に沿って歩いたことになっているが、高等中学校が高等学校に改称されるのは1894年である。東京第一高等学校の塀のつきたところに、根津権現の表坂、すなわち根津新坂があり、純一はその坂の上から「人家の群れ」を俯瞰している。坂を下りた左手に根津神社の大鳥居があった。それより先が根津八重垣町(根津門前町)で、そこにかつて色街があった。

 八重垣町では、遊郭営業の公許を得ると、新吉原(台東区千束4丁目)にならって、道の両側(現在の不忍通り)に200本あまりの桜を植込み、ぼんぼりを灯して、遊客を誘ったという(註14)。根津権現は、明治時代になると、ことの是非はともかく、神仏分離の廃仏毀釈と、門前の遊郭移転という二つの災厄に見舞われた。『青年』の主人公純一が根津を訪れたのは、根津遊郭が洲崎弁天町に移転して22年後ということになる。

 三遊亭円朝の『牡丹燈籠』に根津の清水谷がでてくる。

 『牡丹燈籠』の初出は、1884(明治17)年、若林玵蔵・境登造による速記本である。作品自体は文久年間(1861~1863)の成立とされる。

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お化け階段。弥生2-18。2021.04.15

 根津の清水谷に萩原新三郎という浪人が住んでいた。生まれつきの美男で、年は21歳になるが、まだ妻を娶っていない。田畑や貸し長屋をもち、その上がりで生計を立てていたという。そんな新三郎の根津清水谷の住まいに、谷中新幡随院の墓地から抜け出した旗本の娘お露と下女お米の亡霊が、夜な夜な、牡丹燈籠を下げてやってくる。

 上野の夜の八つの鐘がボーンと忍ケ丘の池に響き、向ケ岡の清水の流れる音がそよそよと聞え、山に当たる秋風の音ばかりで、陰々寂寞世間がしんとすると、いつもに変わらず根津の清水の下から駒下駄の音高くカランコロンカランコロン、(中略)駒下駄の音が生垣の元でぴったり止みました。(中略)いつもの通り牡丹の花の燈籠を下げて、

 先にも書いたように、忍が丘は上野の別称。向丘は忍が丘の向かいにある丘。池は不忍池。夜の八つ時(午前2時)を知らせるのは寛永寺の時の鐘。

 それでは、根津の清水谷とは根津のどのあたりのことをいうのだろうか。

 手元の資料やインターネットで調べてみたが、なぜか、根津清水谷という地名は探しだせない。しかし、ふだん街歩きの資料に使っている『日本歴史地名大系13 東京の地名』には、明治時代の旧地名として、根津清水町(現在の根津1丁目)があり、西側に隣接して、向ケ丘弥生町(現在の弥生1、2丁目)があると書かれている。台地の下が根津清水町で、台地の上が向ケ丘弥生町である。二つの町の間に断崖または急峻な傾斜地があり、それが町域の境界になっている。

 根津の清水谷では「向ケ岡の清水の流れる音がそよそよと聞え」と『牡丹燈籠』は書いている。現在はマンションや学校などが建ちならぶ住宅地になっているが、かつて向丘の崖下には、樹木や下草の繁った間のそこかしこからから清水が湧き、それが小さな流れを造っていたのではないだろうか。根津の清水谷というのは、特定の一箇所というよりも、向丘の崖下一帯の総称だったかもしれない。さらに憶測を重ねれば、この小さな流れは藍染川(谷戸川)に合流し、上野不忍池に注いでいたのである。

 『江戸切絵図』をみると、「水戸殿」(水戸藩邸)の東側に「小役人」と記した武家地がある。ここが明治時代の根津清水町であるが、江戸時代には清水横町と呼ばれていたという。『牡丹燈籠』の萩原新三郎は浪人といっても、田畑や貸し長屋をもち、その上がりで生計を立てていた。であるとすれば、この清水横町の住人であったと考えても、おかしくない気がする。

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根津神社表参道の武田表具店。根津1-14。2021.04.15

 森鴎外が「溝のような池があって、向うの小高い処には常盤木の間に葉の黄ばんだ木の雑じった木立がある」と『青年』に書いたその小高い丘の上に、『江戸切絵図』は清水観音の御堂を描いている。

 『江戸名所図会』にも、神仏分離で失われたこの清水観音が取り上げられている。観音堂は京都清水寺と同じ懸崖造りの伽藍様式に描かれていて、本文には次のような解説がつけられている。

 観音堂 (本社の左、岡のうへにあり。洛陽清水寺の模(うつ)しにして、本尊千手観音の像は慈覚大師の作といへり)。

 だとすれば、京都清水寺の崖下に音羽の滝があったように、根津権現の観音堂の崖下にも音羽の滝があったのではないだろうか。三遊亭円朝が『牡丹燈籠』を構想した幕末のころには、そこでも、耳をすませば、「清水の流れる音がそよそよと」聞こえていたように思われてならない。