随筆集

2022年3月14日

平嶋彰彦のエッセイ 「東京ラビリンス」のあとさきその19 千駄木薮下通りの光と影(前編)

文・写真 平嶋彰彦 毎月14日更新
全文は http://blog.livedoor.jp/tokinowasuremono/archives/cat_50035506.html

 連載その18(前編)では、森鴎外の『青年』を取りあげた。今回はその続きになる。主人公純一は、根津神社に参拝しないまま、裏門から出ると、それより薮下の狭い道に入り、爪先上がりの坂をたどって、団子坂に向かって歩いていった。

 藪下の狭い道に這入る。多くは格子戸の嵌っている小さな家が、一列に並んでいる前に、売物の荷車が止めてあるので、体を横にして通る。右側は崩れ掛って住まわれなくなった古長屋に戸が締めてある。九尺二間というのがこれだなと思って通り過ぎる。(中略)それから先は余り綺麗でない別荘らしい家と植木屋のような家とが続いている。(中略)爪先上がりの道を、平になる処まで登ると、また右側が崖になっていて、上野の山までの間の人家の屋根が見える。ふいと左側の籠塀のある家を見ると、毛利某という門札が目に附く。純一は、おや、これが鴎村の家だなと思って、一寸立って駒寄の中を覗いて見た。

 「毛利某」こと「鴎村」が鴎外自身であるのは、いうまでもない気がする。次いで、その作風を、「竿と紐尺とを持って測地師が土地を測るような小説や脚本を書いている人」と評し、「純一は身震いして門前を立去った」と続けている。「竿と紐尺とを持って」という自嘲的な物言いの真意は、伊能忠敬が正確無比な日本地図を制作したように、ということだろう。世間が「身震い」しようとしまいと、筆を曲げるつもりはなかったと思われる。

 「薮下の狭い道」は薮下通りのことだが、鴎外の旧居があったのは、薮下通りが団子坂に突きあたるすぐ手前で、現在は文京区立森鴎外記念館(千駄木1丁目23-4番地)になっている。団子坂は、『御府内備考』によると、千駄木坂とも汐見坂とも呼ばれていた。

 汐見坂というからには、そこから海が見えたのである。鴎外は団子坂の邸宅を観潮楼と名づけ、「わたくしの家の楼上から、浜離宮の木立の上を走る品川沖の白帆」が見えると書いている。記念館の目の前がしろへび坂である。実感的には断崖というのがぴったりするその坂の上に立つと、いまや品川沖は望むべくもないが、南東方向に目をやると、ビルとビルの間に、押上の東京スカイツリーが見晴るかせる。

 藪下通りの景観描写に、「九尺二間」が出てくる。これは間口九尺(約2.7m)、奥行二間(約3.6m)のことで、粗末なむさくるしい住居や裏長屋の代名詞だとされる。それが無住になったまま放置されているのは、町が寂れていることをうかがわせる。

 その先には「別荘らしい家と植木屋のような家」が続いていたとある。『江戸切絵図』「小石川谷中本郷絵図」をみると、薮下通り西側の高台は太田摂津守の下屋敷で、東側の低地は町人地(千駄木町)と百姓地になっている。明治維新で大名屋敷はなくなるが、やがてその跡地は市街化され、新興の有産階級が好んで住むようになった。そうした街並みのなかに「別荘らしい家」もあったのである。鴎外が団子坂に転居したのは1892(明治25)年である。観潮楼のあった場所は、太田摂津守の下屋敷北側に隣接する世尊院門前町か、そうなければ世尊院境内の一画だったようにみられる。

 文中の「植木屋らしい家」とは、地方から上京したばかりの主人公の純一の目には、そう映ったということである。作者の鴎外は、団子坂に移ってかれこれ18年になる。土地勘は十二分にあったわけで、植木屋以外の何ものにも見えなかったはずである。千駄木の台地上に別荘が建つのは、江戸が東京になってからである。それにたいして植木屋という稼業は、江戸開府以来の伝統的な文化である。

 「別荘」と「植木屋」を対照的に扱っているわけだが、この箇所には少しこだわってみたい気がする。というのも、明治時代に団子坂といえば、菊人形の見世物が有名だったからである。これを主宰したのは、もちろん、植木屋である。

 この催しが執り行われたのは、神嘗祭と天長節を挟んだ10月初めから11月半ばまでの1か月余りだという。主人公の純一が団子坂を訪れたのは「十月二十何日」となっている。菊人形展の真っ最中のはずだが、それについては一言も触れていない。

 夏目漱石の『三四郎』に、団子坂の菊人形のにぎわいぶりが、生きいきと描かれている。『三四郎』の初出は『朝日新聞』の連載小説で、1908年9月1日からその年の12月29までの掲載である。

 右にも左にも、大きな葦簀掛けの小屋を、狭い両側から高く構えたので、空さえ存外窮屈に見える。往来は暗くなる迄込み合っている。其中で木戸番が出来る丈大きな声を出す。「人間から出る声じゃない。菊人形から出る声だ」と広田先生が評した。それ程彼等の声は尋常を離れている。

 連載その18(前編)でも書いたが、鴎外の『青年』はそれより2年後、1910年3月から『スバル』に連載された。ところが、その中間にあたる1909年の秋、団子坂の菊人形展に一大異変が生じた。

 この年、名古屋の黄花園と菊世界という2軒の植木屋が、それぞれ両国の国技館と浅草公園の常盤座で大規模な菊人形展を開催した。それにとどまらなかった。東京の植木屋のなかからも、名古屋の植木屋たちに追随する形で、浅草の柴崎町や浅草公園に進出する業者が続出した。その結果、それまで菊人形の業界を独占状態にしてきた団子坂は大打撃を蒙り、没落の坂道を転がり落ちることになったというのである。

 詳しいことは分からないが、『青年』の連載を始める前年の団子坂の菊人形展は、おそらく、火の消えたように寂しいものだったに違いない。「竿と紐尺とを持って」という筆致だから、うっかり見落としかねないが、前回に書いた子守の少女と同じように、団子坂の植木屋たちもまた、時代の過酷さに体を竦め、心をS字型に屈曲させていたのである。

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薮下通り。玉石を積んだ石垣。千駄木1-9。2009.12.14

 3年後の1912年、全盛期には30軒あまりの植木屋が集った団子坂の菊人形展は、最後まで残った1軒である巣鴨の種半まで撤退してしまい、完全に消滅した、ということである。

 薮下通りは、冒頭で述べたように、根津神社の裏門と団子坂の坂上を結んでいる。

 『江戸切絵図』「東都駒込辺絵図」をみると、薮下通りから団子坂にかけての道筋に、「コノスヘセンタキ下丁」(この末、千駄木[坂]下町)、「シオミサカ、ダンゴサカト云」(汐見坂、団子坂と云う)とあり、また団子坂の中腹には「谷中ミチ」(谷中道)とも記されている。森鴎外の観潮楼跡(現在の森鴎外記念館)があったのは、この『切絵図』でいえば、「世尊院門前」(世尊院門前町)のあたりとみられる。

 その団子坂を隔てた斜向かいに、「権現山、御立山、元根津ト云、植木屋多シ」と記される町人地がある。

 「権現」は根津権現の略称。「御立山」は狩猟や伐採を禁じる山のことらしい。元根津の地名は、根津権現の旧社地だったことに由来する。「植木屋多シ」とあるが、この『切絵図』の制作された1854(嘉永7)年のころは、植木屋が軒を連ねていたとみられる(以下略)。

・おまけ

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 27日、館山へ日帰りで行ってきました。この日は西高東低の荒れた天候で、畑へ行くと、ソラマメが強風に煽られて、身を竦めていました。

 しかし、もうそろそろ冬も終ります。その近くでは、育て損なったハクサイが、葉を丸めないまま、花を咲かせていました。