2022年3月22日
モロさん(諸岡達一さん)の祖父・父・伯母、3代4人が毎日新聞一家
かつて毎友会のお世話をしていただいた角田小枝子さんをご存知ですか。
東京毎友会の会員名簿には、明治39(1906)年9月30日生まれ、昭和36(1961)年9月、人事部で定年退職とある。平成11(1999)年92歳で亡くなった。
「モガだったですね。おかっぱ頭、服装がカラフルで芸術家風だった。スカート姿は見たことがなかった。いつもパンツ。小柄だが、何でもはっきりものを言ってね。怖いおばさんでもあった」と、人事部の後輩、立木鉄太郎さん(82歳)が思い出を語る。
立木さんは62年入社だから、小枝子さんとは入れ違いだが「角田さんは嘱託で1年残られたので、全舷でも一緒だった。でも、ほとんど口をきいたことはありません」と言う。
小枝子さんの父親は、角田浩々歌客(かくだ・こうこうかきゃく、本名:勤一郎)。整理本部の鬼才・諸岡達一さん(1959年入社、85歳)の祖父であることを、つい最近知った。そこで諸さんに尋ねると、メールで以下の返信があった。
《堤ちゃん、はーいはい。
・角田勤一郎の次女と諸岡新平と結婚。長男がモロ。
・角田勤一郎の長女は「角田小枝子」。
・角田小枝子は「知らない社員はいない」と言われた人事部の女ボス。
・角田小枝子は定年後・毎友会事務局でボス続行。あの彼女です》
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モロさん親子は、東京本社整理部に一緒にいて「大モロ」「小モロ」と呼ばれていた。「大モロ」諸岡新平さんは、79年逝去、77歳。
小枝子さんは、モロさんの伯母さんである。親子3代、一族4人が毎日新聞旧友なのだ。
さて、浩々歌客である。
この写真が掲載された『慶応義塾出身名流列伝』(1909年発行)によると、1869(明治2)年静岡県の現富士宮市生まれ。沼津中学から86(明治19)年、慶應義塾に入り、90(明治23)年、新設した大学部文学科に入学したが、間もなく中退。郷里に戻って養鶏をする傍ら漢文、和歌、俳句などを勉強。97(明治30)年1月、国民新聞、99(明治32)年2月、大阪朝日新聞で記者生活のあと、1905(明治38)年8月、大阪毎日新聞(大毎)に入社した。
08(明治41)年12月から菊池幽芳をついで大毎第2代社会部長。翌年6月学芸部長。11(明治44)年2月第3代社会部長福良虎雄が東京転出に伴い、第4代社会部長を兼務した。
大毎は1911(明治44)年3月1日に東京日日新聞(東日)を吸収合併する。で、浩々歌客は翌12(大正元)年7月東日学芸部長となった。東京へ転勤である。
浩々歌客の名前が残っているのは、1904(明治37)年3月に制定した慶應義塾の塾歌作詞者として。この年4月21日に行われた慶應義塾創立50年記念式典で歌われた。鎌田栄吉塾長らに作詞を頼まれたという。
天にあふるる文明の
潮東瀛(とうえい)に寄する時
血雨腥風(けつうせいふう)雲くらく
国民の夢迷う世に
平和の光まばゆしと
呼ぶや真理の朝ぼらけ
新日本の建設に
人材植えし人や誰(たれ)
野球の早慶戦は、その前年の1903(明治36)年に始まった。応援に歌うカレッジソングが必要だったのかも知れない。「見よ風に鳴るわが旗を…」の現在の塾歌は1941(昭和16)年1月10日に発表されている。
「漫遊人国記」は、大毎で好評連載。出版の際、坪内逍遥は序文で「この漫遊人国記は、一種の日本文明史論」と褒めたたえた。
また北欧文学者でもあり、フィンランドの民族叙事詩「カレワラ」を日本に紹介した。
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浩々歌客は東日学芸部長在籍中の1916(大正5)年3月16日に亡くなった。48歳だった。
本郷駒込の浄心寺で行われた葬儀には、坪内逍遥、与謝野鉄幹、高浜虚子ら文壇・知名人らが多数詰めかけ、大毎・東日の社員を代表して菊池幽芳大毎学芸部長が「君と机を同じゅうすること11年」「今君を失うは文壇の損失」と弔辞を述べた。
コラム「茶話」の筆者で8歳下の薄田泣菫は、菊池幽芳と2人で文楽を見ている時、訃報を知らされた。「交友17年。君は酒好きだったが、量は大して飲むほどでなく、ちびりちびり盃を嘗めてさへ居ればよい気持でゐられるらしかった」と悼んだ(薄田泣菫全集第8巻)。
泣菫は、菊池幽芳のあとの大毎学芸部長である。
モロさんのオヤジ「大モロ」さんも机の下に一升瓶を置いて仕事をしていたといわれ、「小モロ」さんも、パレスサイドビル地下の蕎麦屋でいつもチビリチビリ飲っていましたね。
ただ、小枝子さんは下戸だったとか。
葬儀広告にある中村春二は、浩々歌客の従弟で、成蹊学園創立者。諸岡さん、安倍晋三元首相は、成蹊大学の卒業生である。
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追記:毎日新聞のOB同人誌「有楽ペン供養」(改題して「ゆうLUCKペン」)のバックナンバーを見ていたら、角田小枝子さんが1回だけだが、寄稿していた。1985(昭和60)年11月発行の第8集、満79歳だった。
毎友会の部屋で、ここに顔を出すOBたちの思い出話を聞くのを楽しみにしていた、と語り《私も新聞記者の子なので、男の子だったら一生平記者でもよいからと思ってもみた》。
《むかし大正元年9月のある暁方、人力車で帰宅した父が、昂奮ぎみに乃木大将の殉死を母や祖母に語っているのを聞いた時、まだ小学校にゆかなかった私は「新聞記者っていいなあ」と思った。
何がいいかわからなかったが、興味があったことはたしかだ。しかし明治生まれの女の子にはすべてむり、出るものはみんな打たれて女の子、女の子である。
身にしみた教育勅語はそうかんたんに忘れられない。「ケセラセラ」とすでに一生も終わろうとしている。みなさんの想出記を読ませて頂くのをひとつのたのしみに》
(堤 哲)