随筆集

2022年4月11日

福島清さんの「活版工時代あれこれ」①高卒で毎日新聞に入社するまで

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 毎日新聞社印刷局養成員として入社したのは1957年。最後の活版制作紙面は、昭和から平成に代わった1989年暮の12月11日付の栃木版と群馬版。この日は私の53歳誕生日でした。なぜこの日になったのかは、いずれ説明します。

 父は長野県諏訪市にある「南信日日新聞」(現在は長野日報)の文選工でしたので親子2代の活版工です。「活版」「活字」という言葉は実にいい語感で、スマホやパソコンなんかと違って堂々とした日本語です。今でも好きです。私の人生をつくった活版のあれこれを書いてみます。ひまつぶしに読んでみてください。

 子どものころから勉強大嫌いでした。母親から「長男のくせに、ずくなし(なまけもの)で飽きっぽい」とよく叱られました。優秀な製糸女工だった母親には、目障りだったに違いありません。それでも中学を卒業したら農業か工員になりたいと思っていました。

 進学先を決める頃になって、教師と高等小学校しか出ていない父が「高校に行け」というので、妥協して行きました。高校は進学校で250人中、就職組は1割程度でした。進学する気は全くありませんでした。

 3年の秋、高校推薦で上京して2カ所ばかり受けたのですが不採用。最後に受けたのが毎日新聞で、受験番号は150番台でした。同期入社は14人ですから結構倍率は高く、就職難の時代でした。ちなみに読売新聞社には3人が入社しました。

 3次もの採用試験の結果、1957年3月6日付で合格・採用通知が届きました。4月1日の入社式には、戸籍謄本、卒業証明書のほかに「作業衣上下(色はなるべく紺系統、新品でなくてよろしい)、履物(古革靴又は運動靴)、石鹸、タオル」とありました。敗戦後12年、まだ作業服支給なんてなかったんです。

 1957年4月1日、入社式。南信日日新聞時代に「東日の活版に入るのは大変だ」と聞かされていたという父は「東日」を見たかったのでしょう。一緒に出席しました。同期入社は以下の14人でした。(配布資料順)

 江守信正(東京・都立江北高校)大槻進(東京・都立本所工業高校)小木曽清実(長野・県立飯田工業高校)金子善夫(千葉・県立木更津第一高校)高梨武夫(山梨・県立甲府工業高校)長南英次郎(東京・都立第三商業高校)豊島篤(埼玉・県立大宮工業高校)中村守郎(千葉・県立安房第一高校)福島清(長野・県立諏訪清陵高校)前田武男(鳥取・県立倉吉東高校)松宮伸治(神奈川・横浜市立鶴見工業高校)三井順治(長野・県立長野工業高校)横山進伍(静岡・県立御殿場高校)若林健一(長野・県立長野北高校)

 何と長野県が4人もいたのです。戦後の東京本社印刷局では、局長、管理部長が長野県出身で、積極的に長野県人を採用したようです。活版に配属された後、出身地を聞かれて「長野です」と言うと「また長野か」とあきれられたものでした。

 余談です。

 作家の新田次郎(本名・藤原寛人、諏訪市角間新田出身)は諏訪中学出身ですので私の先輩です。その新田次郎が『小説に書けなかった自伝』(新潮社、1976年刊)の「故郷を書く」で次のように書いています。

 『霧の子孫たち』は昭和45年11月単行本として発売された。諏訪の友人たちがぜひとも出版記念会を諏訪でやりたいから出て来てくれと云って来た。行きたくはなかった。今さら出版記念会もおかしいし、こういう行事をやれば、必ず、呼ばれた、呼ばれなかったで、後になって苦情がでる。宴席で頭を低くしておし通せればいいが、少しでも相手に気にさわるようなことがあれば、酒の勢いをかりてきさま生意気だと難題をふっかけて来る者も出て来るであろう。諏訪というところはそういうところであった。(この続きも面白いですが省略)

 諏訪の人間は狷介だということは、振り返ると思い当たります。戦後、諏訪地方事務所の厚生課長をした父は「諏訪(の地方行政)を治められりゃあ長野県の役人として一人前だと言われたもんだ」と言っていました。自慢だが自嘲だかわかりませんが、そんな風潮はいまどうなっているでしょうか。

(福島 清)

 福島清さんは1957年毎日新聞東京本社印刷局養成員として入社、活版部配属。1974~1978毎日新聞労組本部書記長、1993年10月制作局次長、1995年12月定年退職。