2022年4月14日
平嶋彰彦のエッセイ 「東京ラビリンス」のあとさきその19 千駄木薮下通りの光と影(後編)
文・写真 平嶋彰彦 毎月14日更新
全文は http://blog.livedoor.jp/tokinowasuremono/archives/cat_50035506.html
団子坂で見落とせないと思うのが、歌川広重の『名所江戸百景』「千駄木団子坂花屋敷」の錦絵である。この「千駄木団子坂花屋敷」に描かれているのは、『江戸切絵図』「東都駒込辺絵図」で「四季花屋敷紫泉亭、眺望ヨシ」と記される花屋敷に他ならない。場所は森鴎外記念館(観潮楼跡)の薮下通りを隔てたすぐ真向かいになる。求めるさいに、広重の「千駄木団子坂花屋敷」を知らなかったとは考えにくい。
勝手な思い込みに過ぎないが、観潮楼という一種新奇な建築物には、前代の町人文化の典型ともいえる紫泉亭を本歌取りした和洋折衷の意匠があったような気がする。薮下通りの「余り綺麗でない別荘らしい家」の一軒に、鴎外自身の観潮楼も含まれていたのではないだろうか。「植木屋のような家」というのは、紫泉亭をはじめとする千駄木の植木屋たちが衰退していく眼前の事実であったように思われる。
広重の錦絵は、1856(安政3)年の制作である。花屋敷の庭内には、池が設けられ、周りには満開のサクラを楽しむ見物客が描かれている。画面の正面奥には断崖がそびえ立ち、爪先上がりの石段が通じている。崖の頂上に建つのが「紫泉亭」である。2階と3階が桟敷席になっている。持ち主は植木屋の楠田宇平次だという。花園の見事さばかりでなく、高所からの「眺望ヨシ」を謳い文句にしていたのである。
眺望の良さという点では、紫泉亭と観潮楼に大差はなかったはずである。紫泉亭の2階と3階の桟敷席からも、観潮楼の望楼と同じように、遠く品川沖が眺望できたに違いない。というよりも、事の順序は逆で、観潮楼が建てられたのは、江戸が東京になってからである。永井荷風にいわせれば、鴎外は当代の碩学だった。
永井荷風の『日和下駄』に「崖」と題した一章があり、そこに薮下通りが出てくる。
根津の低地から弥生ケ丘と千駄木の高地を仰げばここもまた絶壁である。絶壁の頂に添うて、根津権現の方から団子坂へ通じる一条の路がある。私は東京中の往来の中で、この道ほど興味あるところはないと思っている。片側は樹と竹藪に蔽われて昼なお暗く、片側はわが歩む道さえ崩れ落ちはせぬかと危ぶまれるばかり、足下を覗くと崖の中腹に生えた樹木の梢を透かして谷底のような低い処にある人家の屋根が小さく見える。
『日和下駄』の初出は『三田文学』で、1914(大正3)年8月から翌年6月までの連載である。ここでいう「弥生ケ丘と千駄木の高地」とは、忍が丘にたいする向丘のことで、薮下通りはその断崖の縁に沿った道筋である。「樹と竹藪に蔽われて昼なお暗く」とあるのは100年前のことで、いまではすき間もないくらい家が建て込み、道幅を広げて自動車も通るようになっている。とはいっても、人影はまばらで、車の往来も少なく、ひっそりしたというか、落ちついたというか、都心には珍しい雰囲気を漂わせている(略)。
藪下通りの道筋を『新板江戸外絵図』でたどってみると、出発点(終着点)は、本郷通り(日光御成道)の「一里塚」(本郷追分)で、終着点(出発点)もやはり本郷通りの「富士権現」(富士神社入口)である。富士神社は「ときの忘れもの」のすぐ近くにある。ギャラリーの3階テラスから神社の森が望める。この道筋は、簡単にいうなら、駒込(江戸時代の駒込村)を半円形に廻る本郷通りの脇道なのである。
『新板江戸外絵図』を見ていただきたい。『青年』の主人公純一が本郷追分から歩いたのは、この脇道であることが分かる。水戸家と小笠原家の屋敷(現東大農学部)沿いにしばらく進むと「大ヲンジ」(大恩寺)がある。その跡地に建っていたのが東京聖テモテ教会である。純一はここを右折し、根津新坂に出たのだが、この絵図ではその先に「甲府宰相殿」の屋敷地(現在の根津神社)があり、道はその手前で途切れている。「甲府宰相」は六代将軍徳川家宣の父綱重である。家宣はこの屋敷地で生まれた。根津神社には家斉の産湯の井戸と胞衣塚が残されている。
大恩寺前で右折せず、道なりに歩いていくと、やがて「甲府宰相殿」の屋敷地の北側に出る。ここで道は直角に左折する。そこから先が薮下通りである。
薮下通り西側の台地上は「太田摂津」(太田摂津守屋敷地)と「千駄木林」(寛永寺の御用林)が占めている。その一方、東側の低地は農地で、「田」と「畠」と記されている。
薮下通りは団子坂までだが、道はその先まで続いている。
団子坂との交差点の北西側に「子ズノゴンゲン」(根津の権現)とある。ここが根津神社の旧社地で、後に元根津と呼ばれるようになった。さらにまっすぐ進むと、動坂に至る。そこで田端からの道に合流し、北西から南西に方向を変えつつ進むと、「神明社」(駒込天祖神社)の北側をへて、終着点の「富士権現」にたどり着き、そこで本郷通りと合流する。
団子坂から動坂までは、大給坂(おぎゅうざか)・狸坂・きつね坂・むじな坂と坂が続く。いずれも進行方向にたいし直角に右折する下り坂である。ということは、薮下通りと同じように、この道も向丘から続く台地の縁に沿って拓かれていることになる。
千駄木の動坂は駿河台付近から南北に連なる台地(本郷台地)の北の端になる。そこで忍が丘から赤羽まで続く台地(上野台地)に、行く手を阻まれるような恰好で突きあたる。
この脇道に併行するように、根津と千駄木の低地に拓かれたのが不忍通りである。不忍通りは『新板江戸外絵図』にも『江戸切絵図』にも見当たらない。近代になってから作られた道路である。さらにその外側を藍染川(谷戸川)が流れていた。その流路跡を道路に整備したのが、現在の谷田川通り・よみせ通り・へび道ということになる。
永井荷風が『日和下駄』に書いた「樹と竹藪に蔽われて昼なお暗く」という景観を彷彿させる崖が、薮下道から入った路地の奥に残っている。雑木や雑草が伸びるに任せて繁茂しているが、文京区の管理する緑地である。もと太田摂津守の下屋敷の一画で、現在は千駄木ふれあいの杜の名前がついている。
私は田舎育ちのせいか、なんとなく草刈り機やノコギリを持ち出したくなる。しかし、考えてみれば、これはこれで一見の価値がある気がしないでもない。住まいも田畑も、人の手が入らなくなると、たちまちに雑草がはびこり、そのうちに樹木が芽生える。やがて30年もすれば、もとの自然に回帰し、すっかり「樹と竹藪に蔽われて」しまう。それを見るだけでも学ぶことは少なくない。
千駄木ふれあいの杜のほかに、昔ながらの崖の面影を残して興味深いのが須藤公園である。ここは江戸時代に松平家(越前大聖寺藩)下屋敷のあった一画である。南側は根津神社の旧社地や植木屋六三郎の店舗があった元根津である。公園のある場所は、明治時代に入ると、政治家の邸宅になっていたが、その後、実業家の須藤吉左エ門の手にわたった。1933(昭和8)年、その須藤家から園用地として東京市に寄付され、さらにその後、文京区に移管されたとのことである(以下略)。