随筆集

2022年4月22日

100回を迎えた「毎トー」生みの親は、運動記者の弓館小鰐

 毎トー(毎日テニス選手権)がことし100回の記念大会を迎え、まずベテラン大会(男75歳以上、女65歳以上)が5月30日~6月10日、昭和の森テニスセンター(東京都昭島市)で開かれる。

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1919(大正8)年9月1日付東京日日新聞

 この大会は「日本最古・最大級の公認テニストーナメント」をうたう。その始まりは、1919(大正8)年8月のO・B(オールドボーイズ)庭球大会である。「東京日日新聞」記者弓館小鰐(本名芳夫)が提唱したといわれる。

 写真右端が画家の小杉未醒(放菴)。のちに都市対抗野球大会の優勝旗黒獅子旗をデザインする。この大会にも橋戸頑鐵とペアを組んで出場したが初戦で敗れた。その左が優勝カップを持つ針重敬喜と1人置いて山崎喜作組だ。

 小杉放菴記念日光美術館のHPに、「小杉や針重らが弓館に勧めて実現した大会」とあった。小杉らが1911(明治44)年5月、東京田端につくった芸術家の社交クラブ・ポプラ倶楽部にテニスコートを2面つくった。野球・相撲・漕艇・柔道などスポーツ好きの仲間の集まり天狗倶楽部の連中も、このコートでテニスを楽しんだという。

 弓館はナンパの新聞記者だった。振り出しは、黒岩涙香の「萬朝報」。1905(明治38)年に早大を卒業、野球部長安部磯雄の口利きで入社したという。

 自慢は「早慶戦はすべて見ている」だった。野球の早慶戦が1903(明治36)年に始まった時、早大のキャプテンが橋戸頑鐵で、弓館はマネジャーだった。

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正装の弓館小鰐

 早慶戦は1906(明治39)年11月、1勝1敗で迎えた第3戦が応援団の過熱で中止となった。第10戦は、1925(大正14)年10月19日早大戸塚球場。19年ぶりの再開だった。

 弓館は「野球専門記者の元祖」(木村毅『都の西北―早慶野球戦を中心に』)といわれた。「萬朝報」から「東京日日新聞」に転社したのが1918(大正7)年1月。社会部に配属され、スポーツ記者として活躍した。2年後の1920(大正9)年2月、新設された社会部運動課の初代課長となった。運動課は5年後の1925(大正14)年1月に社会部を離れて独立課となり、1933(昭和8年)10月に運動部となるが、弓館は校正部に転出して校正部長→写真部長を歴任。運動部長は、写真部長と兼務で1年間ほど務めた。

 1938(昭和13)年、55歳定年となったが、運動部顧問の肩書は1958(昭和33)年8月1日75歳で亡くなるまで外れなかった。

 弓館は、運動課長時代の1926(大正15)年1月26日から5月26日まで東京日日新聞夕刊に小説「西遊記」を105回にわたって連載した。その挿絵を描いたのが小杉未醒である。

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 挿絵は猪八戒だが、猪八戒をブタと書いたのは、小鰐が初めてという。

 作家の筒井康隆は、子どもの頃に小鰐の『西遊記』を読んで「実に面白かった。とんでもないギャクがあり、講談調、落語調、漫才調と自由自在のくだけた文章に、ぼくはすっかり魅了された」と激賞している(2009年4月19日朝日新聞朝刊読書面)。

(堤  哲)