2022年5月24日
奥武則・元学芸部長の「沖縄と私」―「新・ときたま日記」転載
なんだか江藤淳ふう(?)の偉そうなタイトルだが、要は沖縄についての私的体験ばなしである。
今年は本土復帰50年ということで、5月15日の「記念日」をはさんでメディアで沖縄関連記事が膨大に流れた。それらに接して、「感情的沖縄論を排す」というまじめな論文を書きたい思いが募っているのだが、いまはその状況にない。で、軽く、昔話である。
1970年に新聞社に入った。沖縄は復帰前だった。鹿児島支局、西部本社(北九州市)整理部を経て、報道部に異動したのは、1977年。サツ回りや司法担当をしつつ、沖縄関連取材があると手を挙げた。学生時代から沖縄には関心があった。
そんな私にとって、1978年は「怒涛の沖縄体験」の年だった。まず、「730」(ナナサンマル)の取材。この年の7月30日午前6時を期して、米軍統治下で続いていた車の右側通行を本土と同じ左側通行に変更することになったのである。
道路の構造はむろん、ガソリンスタンドをはじめとする道路沿いの店は車の右側通行を前提に立地していた。バスやタクシーの構造もそうだった。左側通行に合わせる交差点の工事などが「730」前から行われていたとはいえ、沖縄県民にとっては慣れ親しんだ(親しめさせられていた?)生活が一夜にして変わるのだ。
西部本社報道部の一員として、その歴史的事態を取材した。記事はたくさん書いたが、下は当日朝刊。
予想どおりというか、初日から大小の事故が続出した。しかし、私にとって印象的だったのは、午前6時、「右から左へ」に変わる、そのとき、歩道橋を埋めた人々の間に漂っていた、なんというか、雰囲気である。合図のサイレンが響く中、静寂が広がっていた。
続いて12月にふたたび、少し長い沖縄出張をした。まず、沖縄知事選の取材だった。下は12月3日の朝刊記事。
屋良朝苗氏以来の革新県政を受けつぐべく立候補した知花英夫氏に対して自民党衆議院議員を辞職した西銘順治氏の一騎打ちになった。結果、西銘氏が勝利し、「沖縄革新」の輝かしい歴史は頓挫した。まだ存命だった屋良氏を自宅に訪ねて話を聞いたりして、ストレートニュース以外に「沖縄革新の行方」(だったかな)という連載記事を書いた。
続いて、打って変わって、イザイホーの取材に久高島(くだかじま)に行った。久高島は沖縄本島知念半島の東南約5・5キロにある小さな島である。イザイホ―は、この島で12年に一度の午年に行われる神事である。沖縄の「古事記」ともいうべき「中山世鑑(ちゅうざんせいかん)」によれば、沖縄の島々の創造神はニライカナイの地から久高島に降り立った。聖地・久高島では、30歳を過ぎた島の成人女性たちはすべて2人のノロ(女性司祭者)のもとでナンチュと呼ばれる神女になる。イザイホーは新しくナンチュになる女性たちの加入儀礼である。神事は5日間に及ぶ。
5日間全部取材したわけではなかったが、私の33年間の記者生活の中でもっとも印象に残っている取材体験だった。下は、12月19日の夕刊に書いた記事である。
このイザイホーは最後のイザイホーになった。過疎化が進む久高島では、この12年後、新しく神女になるべき成人女性がいなかったのである。
強烈な異文化体験だった。そのあたりのことは、のちに「にっぽん一千年紀の物語」という長期連載をした際に別の形で記事にした。少し短くして引用する。
白装束の女性たちは、ときに厳粛な表情で舞い、ときに喜びを満面に表して激しく踊った。オモロ(沖縄・奄美地方の古謡)が歌われた。冬とは思えない陽光が差したかと思うと、スコールのような雨が降った。赤い琉球瓦と白い漆喰が鋭いコントラストを作る屋根。周辺に広がるアダンやクバの林。理解不能なウチナーグチ(沖縄方言)。「異文化」を強烈に感じた取材体験だった。
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沖縄は長く琉球と呼ばれてきた。1000年前の琉球では米や麦の栽培が始まり、新しい社会体制への流動が始まっていただろう。やがて、按司(あじ)と呼ばれる首長が各地に登場し、抗争を展開する。14世紀になると、沖縄本島を中心に三山と呼ばれる小国家にまとまる。北部には北帰仁(なきじん)城を拠点とする山北(さんぼく)、中部は浦添城(後に首里城)に拠った中山、さらに南部では山南(さんなん)王を名乗る勢力が島尻大里城などを拠点にした。
1372年、中国・明の使節が琉球にやって来た。4年前に建国したばかりだった。「大明帝国」の一員となって朝貢することを求めてきたのだ。中山王・察度は、これを受け入れ、明に使節を送った。中山は1416年に山北を滅ぼし、1429年には山南も降し、琉球の統一を実現する。ここに明の冊封(さくほう)体制下の一国として琉球王国が誕生した。
冊封体制は中華帝国と周辺国家との間のゆるやかな服属関係といえるだろう。周辺国家は中国皇帝に入貢する。中国皇帝は入貢してきた者を皇帝の名においてその国の国王に任じる。中華帝国を頂点にした冊封体制には、朝鮮はもとより、東南アジア諸国、中央アジアのオアシス国家までが含まれていた。
琉球の人々は福建省の福州(初期は泉州)を拠点に東南アジア諸地域で活発な貿易を展開した。大交易時代と呼ばれる時期である。だが、さまざまな交流はあったものの、この時期の琉球王国は日本にとって、まだ「異国」だった。
1609年、薩摩藩が3000の兵で奄美と琉球を軍事占領する。奄美は薩摩の直轄となり、琉球も政治・経済的に完全に薩摩に従属することになった。東アジアの秩序を担っていた明の力が衰えてきたことがこの時期の混乱に拍車をかける。国際関係の中で翻弄(ほんろう)される琉球(沖縄)の苦悩の歴史は、ここに始まった。
幕府・薩摩藩は琉球を実質的に支配しながら、明の冊封体制下にあることは維持させた。幕藩体制下の「異国」として、琉球国王の代替わりには謝恩使が、将軍の代替わりには慶賀使が、京都・江戸に送られた。江戸時代を通じて、この琉球使節は18回に及んだ。
琉球使節によって、薩摩藩は「異国」を支配する大名であることを誇示できた。幕府にとっても、それは将軍の「ご威光」を示すものだった。後には、琉球使節は中国(清)の官名・風俗を強制される。清に朝貢している国からの外交使節であることが強調されたのである。
近代になって、この「作られた異国」は今度は日本への同化を強いられる。1879年、琉球王国は廃止され、沖縄県が設置された。琉球処分である。
太平洋戦争での沖縄戦の悲劇を経て、沖縄は米軍支配というかたちでふたたび長い「異国」経験を強いられた。そして復帰した後も日本の米軍基地の7割以上をかかえるという意味で、沖縄は日本の中の「異域」であり続けている。
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久高島のイザイホーは1990年の午年には行われなかった。人口流出が進み、新たにナンチュになる女性が一人もいなかったのである。78年、思えば私は久高島で一つの「異文化」の終焉(しゅうえん)に立ち会っていたのだった。
この後、連載記事の企画で、沖縄本島に北端にある奥集落の「奥共同店」に行ったこともある。山原(やんばる)の海と林を見ながら、定期バスを乗り継いで、ずいぶんかかった気がする。ちなみに、いまNHKの朝のドラマ「ちむどんどん」、山原から東京に出て料理人になる女性が主人公だ。一家の母親(仲間由紀恵)が働いているのは、「山原共同売店」である。
「怒涛の沖縄体験」の1978年、私は記者になってまだ8年だった。当時書いた記事を読み返し、「元気だったなあ」と思うことしきりである(最後はトシヨリの繰り言)。
(奥 武則)