随筆集

2022年6月14日

平嶋彰彦のエッセイ 「東京ラビリンス」のあとさき その20(後編) 道灌山の正岡子規と芥川龍之介(抜粋)

文・写真 平嶋彰彦 毎月14日更新
全文は http://blog.livedoor.jp/tokinowasuremono/archives/cat_50035506.html

 道灌山に胞衣会社が設立されたのは、『文化の瀧野川』によれば、1895(明治28)年ごろだという。敷地は5000坪。その内の3000坪に胞衣神社と運動場があり、一般に開放されていた。一時は飛鳥山公園以上の賑わいぶりだったようである。しかし、いつのころかはっきりしないが、鉄道省の手にわたり、この本の刊行された1923(大正12)年には、鉄道省の官舎が建ちならんでいた、と書かれている。

『年末の一日』の初出は、『新潮』の1926年1月号である。巻末にある「(大正一四・一二・八)」の表記は、小説を書き上げた日付の意味である。この日は漱石の命日の前日にあたる。ところが、小説でいう「年末の一日」は、漱石の9年目の命日を何日か過ぎたある日ということになっている。時間的な辻褄が合わない。しかし、こんな大事なことを編集者が見落とすはずがない。

 だとすれば、「(大正一四・一二・八)」の表記は、この小説は事実ではなく虚構だとわざわざ断っているのである。『文化の瀧野川』の上記の記述が事実だとすれば、『年末の一日』を芥川が書いたとき、実在の日本胞衣会社は移転したか倒産していた可能性がある。

 木下忠の『埋甕―古代の出産習俗』は、わが国の古代から近代まで胞衣習俗の歴史を考察した労作である。木下によれば、胞衣および産穢物についての取締規則が1887(明治20)年ごろから全国の府県でしだいに定められていった。東京の場合は、1891年3月、警察令第三号が次のような骨子で施行されたという。

 胞衣及産穢物ハ家屋ニ近接セル場所ニ埋納スヘカラス、但胞衣産穢物取扱営業者ハ東京府庁ノ許可ヲ得タル一定ノ埋納焼却場ノ他埋納又ハ焼却スルヲ得ス

 胞衣を人家に近い場所へ埋納することが出来なくなった。また胞衣の取扱営業者が東京府の許可する場所以外で埋納することも焼却をすることも禁止された。

 この警察令では胞衣は産穢物とは一応は区別されているが、取り扱い方に変わりはない。胞衣は産穢物の一つで、単なる穢(きたな)い物、非衛生な危険物と見做されたことになる。私たちの祖先が胞衣を大切に扱ってきた風習に大きな変化が生じたのである。

 道灌山に胞衣神社が建立された詳しい事情は不明だが、この取締規則に基づく措置であったことは想像するに難くない気がする。

 正岡子規に『道灌山』の紀行文がある。

 1899(明治32)年9月28日、子規が道灌山を訪れ、胞衣神社の前にあった茶店に立ち寄っている。『道灌山』の初出は、10月2日と9日の新聞『日本』である(註18)。芥川龍之介の『年末の一日』より25年前になる。

 そのころ、子規は結核の病状が悪化し、歩行が困難になっていた。そのため、人力車を頼み、根岸の自宅から田端に向かった。田端停車場が出来たのは3年前である。周りを廻ると新築の家が建ちならび、なかには料理屋の看板を掛けた家もあった。また歯磨きや煙草の広告が目ざましく聳え立っていたとも書いている。駅のあたりはすでに市街化が進んでいたことになる。

 子規は田端停車場(田端駅南口)から開削されたばかりの急峻な不動坂を上り、田端高台通りに出た。胞衣神社は停車場の真上にあった。

 胞衣神社の前の茶店に憩う。この茶屋此頃出来たる者にて田端停車場の真上にあり。固より崖に臨みたれば眺望隠す所無く足下に見ゆる筑波山青うして消えなんとす。我嘗て此処の眺望を日本第一といふ。平らに広きをいふなり。(中略)
  岡の茶屋に我喰ひのこす柿の種投げば筑波にとゞくべらなり

 この紀行文でいう道灌山は、現在の西日暮里駅から田端駅あたりまでのJR線路に沿った丘陵のことである。この丘陵は上野から赤羽まで連なり、これに併行して、北西崖下の低地にはJR線路(京浜東北線)が敷設された。

 道灌山の地名由来は、室町時代の太田道灌の斥候台があったからとも、鎌倉時代の関道閑の屋敷があったからともされる。それに加えて、道灌山がどこかとなると諸説あり、書物により一定しない。例えば『新編武蔵風土記稿』は秋田藩佐竹氏下屋敷(現在の開成中学・高等学校)東側の崖際としているが、『江戸名所図会』は、新堀(日暮里)から北は平塚(上中里)までの広範な地域だと書いている。

 確かなのはこの台地の東側は断崖が続き、眺めがよいことである。子規は「我嘗て此処の眺望を日本第一といふ」と書いているが、広々した関東平野の彼方に筑波山が望めた。武家地として奪われなかったこの自然豊かな高台は、江戸時代を通じて庶民の行楽地となった。とりわけ秋の夜長には涼を求めて集まる人たちで賑わったといい、また酔客による土器(かわらけ)投げも名物の一つだったといわれる。

 土器投げは京都の高雄山や愛宕山の花見で流行った遊びで、投げた土器が空中で舞うさまを楽しんだとされる。もとを正せば疫病退散や魔除けなどが目的の信仰習俗だったとみられるが、高雄山(神護寺)のほか、滋賀竹生島の都久夫須麻神社・宮崎青島の青島神社・神奈川大山の大山寺などに同様な趣向の行事がいまも残っている。子規は柿を好んだようだが、「我喰ひのこす柿の種投げば」の句は、この土器投げの習俗に擬えたものとみられる。

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南泉寺。小祠に祀られた陰陽の石像。額に「おまねぎ」「客人祭」。荒川区西日暮里3-8-3。2012.11.18

 それより間もない10月のある日、正岡子規は道灌山の胞衣神社で石井露月を送別する『ホトトギス』同人による句会を開いている。『柚子味噌会』はこのときの模様を記した随筆で、11月発行の『ホトトギス』に掲載された。

 石井露月は子規に師事し、新聞『日本』に勤めた。子規は河東碧梧桐や高浜虚子にならぶ警抜と評した。1年前に医師試験に合格。この年は京都で6ヶ月におよぶ実地研修を受けた。いよいよ郷里の秋田に帰り、これから医師として再出発するところ。その途中、東京に立ち寄ったのである。

 東都の同人、日を卜して露月を道灌山胞衣神社の傍に送る。此日秋陰将に雨ならんとして冷気野に満つ。障子を閉じ火鉢を囲んで話す。五彩の幣帛床に揺れて静にして風無く、浅紅の茶梅階(ちゃばい きざはし)に落ちて微(かすか)に声あり。崖上に句を拾ふ者、胞衣塚に畫(え)を写す者、呼べば即ち来る。行厨を開き芳醇を汲む。虚子齎(もたら)す所の柚子味噌、是日第一の雅味と為す。

「東都の同人」は東京在住の『ホトトギス』同人。「胞衣神社の傍」は上記の茶店。「障子を閉じて」以下は、茶店内部の描写である。「五彩の幣帛」(五色の御幣)が飾られているのは、胞衣納めがお祝いの行事と考えられていたことを物語る。「浅紅の茶梅階に落ちて」の「茶梅」は山茶花のこと。後掲の子規の句では、その前に広がる芝生で子供が遊んでいた。

「崖上に句を拾ふ者、胞衣塚に畫を写す者、呼べば即ち来る」とある。道灌山の胞衣神社で行われた句会は、これが最初ではなかったように思われる。「畫を写す者」とは画家のことだろう。この句会には下村為山(牛伴)が加わっている。石井露月が『ホトトギス』の同人たちから慕われていたこともあるだろうが、道灌山と胞衣神社は彼らにとって以前から馴染み深い場所だったのである。だからこそ「呼べば即ち来る」ことになったとみられる。

『柚子味噌会』の末尾、露月を激励する子規の言葉。

 豈慚愧無からんや。得意は爾(なんじ)が長く処(を)るべき地にあらず。長く処らば即ち殆(あやふ)し。如かず疾く失意の郷に隠れ、失意の酒を飲み、失意の詩を作りて以て奥羽に呼号せんには。而して後に詩境益進まん。行け。

続けて「附記」に載る16句から。

  胞衣塚や桜落葉の吹溜   牛伴
  皆曰く是より遠し秋の風  露月
  山茶花や子供遊ばす芝の上 子規

「得意」は、胸を張って秋田に帰ることになった医学のこと。「失意」は志半ばで挫折した文学のこと。露月は文学で身を立てられず、医師への転身を図った。この句会は医師として生まれ変わる石井露月を祝福するいわば胞衣納めの行事だった。であるのに、子規は「豈慚愧無からんや」(恥ずかしくはないのか)と叱咤している。なぜか。露月の文学的才能がこのまま朽ちるのを惜しんだのである。(中略)

 子規は、先に述べたように、歩くことも難しくなっていた。結核が悪化し、脊髄を冒されていたのである。当然、死が遠くないことは覚悟していた。子規の筆名は血を吐くまで啼き続けるホトトギスの別称だということである。最後の最後まで生きる拠り所となったのは、医学ではなく、文学(言葉)だったのである。