随筆集

2022年6月20日

泰さん、恒さん、三千麿さん…運動部記者と「記録の神様」山内以九士

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『野球殿堂』2018(野球殿堂博物館発行)から

 《「記録の神様」山内以九士と野球の青春》(道和書院刊、定価2,000円)が出版された。著者は、孫の読売新聞記者・室靖治さん(54歳)。

 山内以九士(1902~72)は慶應義塾野球部OBで、1985(昭和60)年に野球殿堂入りしているが、この本には毎日新聞運動部の記者がいっぱい出て来る。それを紹介したい。

 「記録の神様」は、打率早見表をつくった。タイガー計算機を使って700打数300安打まで計算、351ページに、下4ケタの数字15万8500個を収めた。

 『ベースボール・レディ・レコナー』。1954(昭和29)年7月刊行。自費出版である。

 当時、ピッ・ポッ・パッで即座に打率が算出される計算機はなかった。

 「新聞社運動部では神様からの贈り物のような貴重な本だった」と石川泰司(元東京本社運動部長→編集局次長。97年没69歳)。現物は日本体育大学図書館で見られる。

 泰さんは、名文記者として知られた。英語をよくして外信部を志望していたが、初任地浦和支局から運動部へあげられた。

 外信部の脇にあった外電のチェッカーから吐き出されるsports記事は、運動部に運ばれた。それを読んで原稿にするかの判断は、運動部の記者の仕事だった。英語遣いが必要な職場だった。

 山内さんが打率早見表をつくるきっかけは、1939(昭和14)年のセンバツ(全国選抜中等学校野球大会)だった。

 この大会は、東邦商(現東邦高)が5試合、73安打、59得点、チーム打率3割6分2厘という猛打で優勝した。山内さんは、大毎本紙の大会後記の最終回に「数字が語る東邦の威力」という見出しで「山内佐助」の署名で書いた。本名は「育二」だが、島根県松江市の呉服商の「7代目佐助」を継いでいたのだ。

 その大会期間中に大毎の運動部記者から「打率早見表があったら」と持ちかけられ、「事の重大さに気づかず」膨大な作業に取り掛かかったという。

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野球博物館のニュースレターから

 翌40(昭和15)年「紀元二千六百年記念」と銘打って『野球成績早見表』全127ページを自費出版した。

 依頼したのは同志社高商を卒業して1936(昭和11)年入社の蜂須秀夫(67年没53歳)だが、《記者は喜ぶどころか、頼んだこと自体忘れていた。…「戦争、戦争で野球の記事もかけないから要らない」と言う》。

 「この打率早見表(レコナー)を大リーグに紹介したのが、鈴木三郎さんだ」と筆者の室さんは言っている。

 鈴木は同志社大学英文科→京都帝大(現京都大学)文学部を修業して1920(大正9)年に大毎に入社した。27(昭和2)年から3年余りNY特派員、その後大毎と東日で運動部長をつとめた。41(昭和16)年2月から南米ブエノスアイレス特派員。44年1月にアルゼンチンが日本との国交を断絶、本社からの送金が途絶え、生花を市場で仕入れ、それを売って生活費を稼いだ。敗戦後の47(昭和22)年に帰国。『タンゴに乗って―アルゼンチン夜話』(日本交通公社出版部、49年刊)を出版している。62年没68歳。

 日本のラグビーは慶應義塾が創始校で、同志社との定期戦は1912(大正元)年に始まったが、鈴木は、そのファーストマッチにFB(フルバック)として出場している。ラグビー早慶戦の始まる10年前である。

 山内さんは、松江中学から1920(大正9)年慶應義塾大学に入学、野球部に入部する。

 その時の慶大のメンバーが載っているが、主力選手は卒業と同時に、ちょうどその年に発足した大阪毎日新聞社の野球チーム「大毎野球団」の選手として迎えられている。

  投手・小野三千麿(野球殿堂入り)
      新田恭一(23年度主将)
  捕手・森 秀雄(20年度主将)
  遊撃・桐原真二(24年度主将、野球殿堂入り)
  右翼・高須一雄(21、22年度主将)

 この5選手は、いずれも1925(大正14)年に大毎野球団がアメリカ遠征をしたときのメンバーである。

 山内さんは、1950(昭和25)年のプロ野球セ・パ2リーグ分裂で、「太平洋野球連盟(パソフィック・リーグ)」の公式記録員となる。

 太平洋野球連盟は、発足当時、有楽町の毎日新聞東京本社内に置かれていたのだ。

 最後にもう一人、岩崎恒(2004年没79歳)。恒さんは、1943(昭和18)年入社の運動部記者。運動部デスクから青森支局長になり、72(昭和47)年2月学生新聞編集部に部長待遇で戻ったときに、山内に連載を頼んだ。

 毎日中学生新聞に連載された「プロ野球珍記録あれこれ」だ。

 野球好きには楽しい本です。《「記録の神様」山内以九士と野球の青春》、手に取ってみて下さい。野球発展に毎日新聞がどれほど寄与したかも分かります。

(堤  哲)