随筆集

2022年6月27日

森浩一・元社会部長の「東京社会部と私:記憶の底から (1)」

はじめに、そして1960(昭和35)年

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毎日新聞旧社屋の跡地に建てられた有楽町のビルの前で撮影

 毎日新聞OB・OGの『毎友会ホームページ』制作や執筆に力を注いでいる社会部OBの天野勝文、堤 哲、高尾義彦の三君から私に東京社会部員としての個人史を書くようにとの要請が来ました。もうメモも残してないし物忘れがひどくなっています。難聴で電話での問い合わせもできません。とうてい無理なので私は固辞しました。けれども「1960年以降の社会部の生き証人だ」と言われて私は考え直しました。

 『60年安保』(1960年の日米新安全保障条約締結)は、戦後社会の変革の一大契機であり、今日まで続く政治の姿の、経済発展の、大都市とりわけ東京圏への人口集中、人々の日常生活大変化のスタート台であったと思います。

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毎日新聞社の貫禄十分の社屋

 すでに私も87歳、多くは忘却の彼方ですけれど、1960年代、70年代の激しく変貌する時代の風をもろに受けながら、昭和35年以降の東京社会部在籍20年余の一記者が経験した道を思い起こし、時代と東京社会部の断面を浮かび上がらせることができれば何かのお役に立つかもしれないと思いました。当今のデジタル化時代、新聞および新聞社はこれからどこに向かうのかを思いつつ。

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 1960(昭和35)年5月1日、私は秋田支局から東京社会部へ異動。秋田駅から特急で12時間かけ上野駅に到着、山手線で有楽町駅へ。1年前、秋田に出発するころは、まだ街にフランク永井の「有楽町で逢いましょう」が流れていた。それを懐かしむ気持ちの余裕もなく駅を出て、毎日新聞社の貫禄十分の社屋(写真・上)をじっと見つめた。

 その時の社会部長は杉浦克己さん。デスクは見谷博、柳本見一、桐山眞、三木正、森丘秀雄さんの5人。警視庁キャップが佐々木武惟さん、サツデスクは牧内節男さんと清水一郎さん。桜木谷範秀さんが部長席うしろのちょっと奥まった小部屋で事務を扱っていた。この大先輩の方々のことは目に浮かぶように覚えている。

 泊りで社会部に上がった夕方、原稿を書いている女性記者がいてびっくりした。当時、女性の社会部員は古谷糸子、岡本初子、関千枝子のみなさん。在籍した増田れい子さんは「サンデー毎日」に移っていた。あの時代に、すごい会社だった。外信部にも女性記者がいるのが社会部の席から見えた。

 サツ回りは14人、社会部1、2年生が警視庁各方面本部に2人ずつ。私は近藤健さんと上野・浅草・荒川の6方面担当になった。近藤さんは間もなく遊軍に、その後外信部へ。近藤さんのあとにずっと年上の岩本實さん。この年の秋ごろからだったと思う、地方部や支局からベテラン記者の社会部への異動が始まった。ベテランといえども社会部ではまずサツ回りからだった。

 サツ回りには木曜会があって、毎週木曜日、夕刊が終わった午後3時、編集局の会議室に集まった。サツデスクからの指示などもがあったが、ざっくばらんな話をする会でもあった。お互いを知りあう良い機会だった。

 サツ回りには夕刊の小さなコラム『赤でんわ』が課せられていた。赤電話は街のどこにでも設置されていた。通信連絡には極めて重要で便利な赤電話だった。コラム『赤でんわ』とはステキな名前だと思いつつ、これは街ダネを拾えということでもあるなあ、と思った。いい原稿だと先輩から褒められた。年末には『赤でんわワイド版』を書いた。

 聞けば『赤でんわ』は1年前の1959年4月1日にスタートしたという。サツデスクが増田滋さんと牧内節男さんのときで、ネーミングはのちに防衛・航空記者になる鍛冶壮一さんだったらしい。増田さんは東京オリンピック前の60年ローマオリンピックに、そして牧内さんは東京オリンピック後の68年メキシコオリンピックに特派された。皇太子妃となる正田美智子さんの取材に深くかかわっていた清水さんが役目を終えて増田さんの後任だった。

 さて、回顧にふけっている時ではない。私が東京社会部の一員となった1960年春の………世の中は騒然としていた。東京は恐ろしいところでもあった。

(社会部OB 森 浩一)

 森 浩一さんは1959(昭和34)年4月東京本社入社、5月秋田支局 /1960(昭和35)年5月東京・社会部 (サツ回り、警視庁七社会、遊軍兼気象庁、都庁クラブ、2度目の遊軍、国会クラブ、3度目の遊軍、遊軍長、サブデスク)/1974(昭和49)年5月中部報道部副部長 /1976(昭和51)年3月東京社会部副部長兼警視庁キャップ、10月副部長専任 /1977(昭和52)年12月社会部長 /1982(昭和57)年9月学芸部長(新設の生活家庭部長兼務)のち編集局次長兼務 /1985(昭和60)年6月経営企画室長 /1988(昭和63)年6月から1991年6月まで東京・編集局長(89年6月取締役) /1991年6月出版・英文毎日・学生新聞担当/1992(平成4)年6月から1994年6月まで常務取締役 /同年6月スポーツニッポン東京本社社長 /2000(平成12)年6月スポニチ社長退任。

・森浩一さんが社会部に在籍した当時の社会部長は以下の通りです。

(頭の数字は在任順、敬称略)

26杉浦 克己 1958.8~ 27角田 明  1961.8~ 28稲野治兵衛 1963.8~
29森丘 秀雄 1966.8~ 30谷畑 良三 1968.8~ 31畑山  博 1971.2~
32佐々木武惟 1972.4~ 33竹内 善昭 1975.2~ 34牧内 節男 1976.3~
35石谷 龍生 1977.4~

※寄稿をお願いした経過を付記します。早稲田大学政治経済学術院、土屋礼子教授から昨年4月に「社会部経験者の聞き取り調査をしたい」との依頼があり、森浩一元社会部長をはじめ9人を推薦しました。その結果は今年3月に「個人史聞き取り調査」報告書として刊行され、毎友会ホームページで紹介しました。この過程で森浩一元社会部長の聞き取り調査が大学側の手違いで実現しなかったため、寄稿をお願いした次第です(事務局)。