随筆集

2022年6月30日

森浩一・元社会部長の「東京社会部と私:記憶の底から(2)」

サツ回り仕事始め 安保闘争ピークに

 秋田支局から社会部に転勤になったのが1960(昭和35)年5月1日。サツ回りで近藤健さんと私の持ち場は、上野署に取材拠点を置く警視庁第6方面本部(上野、浅草、蔵前、下谷、荒川、尾久、南千住警察署)だった。まことに風流な地域ではあるが、「花の雲鐘は上野か浅草か」(芭蕉)などと面白がっているどころではない。東京は騒然としていた。

 *雅樹ちゃん誘拐殺人事件。―――銀座の天地堂カバン店社長の長男、慶応幼稚舎2年生の雅樹ちゃんが学校に行く途中に誘拐され行方不明になって、犯人から身代金を要求されていた。
 *国会は安保阻止国民会議などの10万人デモに取り囲まれていた。
 *文京区では女子高校生が通り魔に刺殺された。新宿や板橋などあちこちで若い女性が狙われる事件が起きた。

国会へ国会へと

 サツ回りは持ち場を離れて連日のように国会周辺のデモ取材に動員された。

 国会請願のデモは全国各地からやってきていた。

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 新宿から、渋谷から池袋からとデモ隊が途切れることなく国会へ国会へと向かつた。「安保 反対!」のプラカードとシュプレヒコール。国会、首相官邸、アメリカ大使館周辺はデモ隊で埋め尽くされた。学生、労働者、いわゆる文化人たち、演劇人は首にすてきなスカーフを巻いていた。学者たちの姿も目立った。1年余前まで教えを乞うていたあの物静かな教授がデモの中にいた。各大学では教授陣の安保研究集会や抗議集会がもたれ声明が出た。デモの波は国会周辺から日比谷、新橋、有楽町方面へと流れていった。銀座では道路いっぱいのフランスデモ。

 街角の赤電話を見つけてはメモ帳片手に小刻みに原稿を送った。原稿というより状況報告みたいなものだった気がする。

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 国会請願のデモは6月に入ると過激化。「安保 粉砕!」。「反対」は「粉砕」に変わり、ストライキで電車は止まり、郵便や通信にも支障が出た。商店は「閉店スト」。

 6月15日、全学連が国会内に南通用門から突入した。私は国会内のその現場にはいなかったが全学連と機動隊の衝突で東大生樺美智子さん(写真・右)が死んだ。新聞は岸首相退陣を要求した。毎日新聞はじめ在京新聞七社が「暴力を排し議会主義を守れ」との共同宣言を出した。

 この連日の安保闘争を報じる毎日新聞は学生たちの間で特に注目されたとのちに聞いた。

初の女性大臣誕生

 7月に入って岸首相が右翼に尻を刺される事件まで起き、その後、岸首相が退陣。池田内閣が発足。その7月19日、私は当直で夕方から社に上がっていた。「森君、中山マサが厚生大臣で入閣するらしい、追ってくれ」とデスク。行く先々で「さっきまでおられたが……」である。やっと会えたけれど、だいぶ時間がたっている。叱られるだろうと思いつつ電話送稿。社会部に戻るとデスクがニヤリとした。『なんといっていいかうれしくて、女であることの幸福を感じています』。原稿のこの部分がデスクは気に入ったらしく、ほっとした。初の女性大臣誕生であった。

 池田首相は所得倍増計画を発表、これが経済の高度成長、人口の都市集中、その対策としての郊外巨大住宅団地の建設と、世の中は大きく舵を切ってゆく。東北各地からの中学卒の集団就職が続き、彼ら彼女らは「金の卵」と呼ばれた。「あゝ上野駅」の歌ができ、その碑が上野駅東口に立った。「配達帰りの自転車を とめて聞いてる国なまり」。故郷を懐かしみ上野駅に国訛りを聞きに行くのである。近年、映画「三丁目の夕日」「続三丁目の夕日」が、よくその時代の情景、雰囲気を伝えていた。

 7月末、持ち場の浅草・山谷で衝撃的な事件が起きた。

(社会部OB 森 浩一)