2022年7月4日
森浩一・元社会部長の「東京社会部と私:記憶の底から(3)」
マンモス交番襲撃
池田内閣が発足し、『安保』が沈静化して世の中は普通の日常に戻り、季節は夏の盛りだった。1960(昭和35)年7月末。突然、東京浅草の山谷ドヤ街で暴動が起きた。いまはドヤ街という言葉を使うかどうか知らないが、ドヤは簡易宿泊所のことである。寝泊まりしている人は日雇い労働者が多く、手配師が仕事を割り振っていた。一種、闇の世界であった。その街に3階建てのマンモス交番ができた。交番と言っても並みの交番ではない。警察官が40人ぐらい配属されていた。
警察官がある日、窃盗少年と酔っぱらいをマンモス交番に連行した。するとドヤの住人が騒ぎ出し、ついに不穏な群衆と化して、新設なった大交番を襲撃した。警察官多数が重軽傷。騒ぎはますます大きくなった。仕事にあぶれると昼間から酒をあおっていた者もあり、大変な事態。連日2000人以上、3000人と膨れ上がり、投石、放火である。機動隊が出動して鎮圧に努めたが、騒ぎは8月まで続いた。
戦後社会が15年たち、復興期で建設業などが活発化、人手需要が増して、山谷の街にも人が集まっていた。社会の貧困層に漠然としたやり場のない不満、不安がよどみ、溜まっていたと思う。経済の高度成長への助走期に起きた社会現象ではなかったか。
浅草山谷の簡易宿泊所はいまや外国人旅行者が利用する宿泊施設となっているという。隔世の感である。
上野動物園
夕刊に彩が欲しいときなどデスクから「動物園に」と電話が来る。暑い夏など写真部員はペンギンにレンズを向ける。こちらは「ペンギンも暑いでしょうね」などと月並みなことを飼育係に聞くと「ペンギンに聞いてみな」。返事はそれだけである。女性の飼育係が1人いた。何を聞いても黙々と仕事をしていた。
警察署もそうだが、動物園にもどこにもいまのような『広報』というものはなかった。それだけに、それによって取材者は個々人それぞれに鍛えられた面があったと思う。
新聞カメラマンのステータスシンボル「スピグラ」
当時、毎日新聞は毎週1頁をさいて『日本の鉄道』を連載していた。サツ回りの私にもその出張取材が回ってきた。連載を取り仕切っていた遊軍の山口清二さんが「青梅線に行ってもらう」と。ちょっと拍子抜けした記憶がある。
米軍横田基地を抱える立川、福生にかけては、まさにアメリカ軍の基地の町。ここでは基地の飛行場拡張測量で砂川地区の農民と応援の学生が機動隊と激しくもみあった。この砂川事件はのちに日米安保行政協定の合憲性をめぐる問題として最高裁まで争われた。
立川駅を発った電車からは広大な基地が眺め渡せた。
青梅駅を過ぎて電車が山間部に入る。写真は山から線路も入れて撮ることになった。写真機は大きなスピグラ。それが確か2台と脚立などの機材。それを分け持って中腹まで登った。
当時、写真部はもっぱらスピグラ=写真・右=だった。
大きなスピグラを持って大変だったと思うが、このカメラはもっぱら新聞カメラマンが使い、そのステータスシンボルでもあったらしい。戦後、アメリカ軍が大量に持ち込んだカメラだそうだが、東京オリンピックごろ急に使われなくなったという。事件現場の取材で、スピグラを竹竿の先に縛り付けて掲げ、非常線の外側から撮影した写真部員がいて、驚いたことがあった。取材にかける意気込みはすごかった。
奥多摩では、蕎麦に清流に育ったワサビ。久々に奥多摩の味覚を味わった。
(社会部OB 森 浩一)